創価教育学体系 メモ

教育学の研究法 『創価教育学体系Ⅰ』p89

 科学は生活より出発するものであり、生活の事実の観察、考究の上に組織さるべきものである事は論ずるまでもない。然らば其の生活の観察は如何にしてなさるべきか。吾々が生活の流れの先に立って、それを観察するならば、その最後の瞬間に於ける事実、即ち最後の結果だけが見えて、それ以前に於ける事実は、その断面に隠れて全く見えないのである。しかるに、若しも流れの側面に立つならば、時々刻々変り行く様だが、それに対しては尚充分なりとなり得ぬ。されば之を補うに今一の見方、即ち流動の後方に立って縦観する手段を以てするのである。単純より複雑に進み行く状態を比較統観が出来て、等同不変の性質を中核として、周辺に於て変化し、複雑さを増加して行く状態を比較的に知ることが出来る。要するに観察の三方面は
一、先ず流れの先端に立ってこれを迎観し、最後の口を横断的に観察し、
二、次に側面に立って時順的に変化する状態を縦断的に観察し、
三、最後に発見し行く後方に立って、最初の起源より次第に進行し、一定の方向に変遷する進化状態を統観する。
 以上の三方法によることにより、始めて複雑多岐なる生活現象の遺憾なき研究が完成されよう。教育学も又日常の教育生活の観察より出発して、其の上に組織さる可き性質であるから、又前述の科学的研究法と一致せねばならぬ。
 尚、教育の対象の考察の手続を詳説し、真理探究の一般過程を分析すれば左の如くになるであろう。
(一)生活の学問化ー特殊事実よりの帰納研究。
(A)教育生活に於ける偶然の成功の記録。
(1)失敗か若しくは無意識なる生活の反覆に於て、特に目立ちて且記録に価するだけの結果を齎らしたる事実の認識と記憶。
(2)その特殊の結果たる事実の生じたる原因と見做さるべき、特殊なる生活現象の分析的観察。
(3)要するに日々に反覆しつつある平凡単調なる教育生活中に表れたる稍々特殊なる結果を生じたる事実の観察と、其の依って生じたる原因の分析的考察
(B)同様の成功を齎らしたる所謂堪能者の成功の事実の観察と、之を生じたる特殊の原因の考察。
(1)所謂堪能教師として、他の一般同業者より尊敬を受けるだけの人と、其の所以の事実の認識。
(2)その人の努力。他の一般との比較観察に於て発見された特殊の点の分析的観察。
(3)其の特殊の結果を生じたるが為に加わった特殊事情の分析的考察。
(C)因果律に基づく、総合的概念ー心理的概念と論理的概念。
(二)学問の生活化ー演繹的考察、即ち概念の特殊的還元ー即ち法則の実験的証明ー総合的研究。
(三)進化論的考察ー以上によって確認された真理を、古来より発達変遷した過程の、歴史的考察をして、その点よりその妥当性を論証すること。
(4)真理の批判的考察ー目的観念より観たる真理の判断。それが果して生活上に何程の価値を有するかを批判し、更に確実性の自信を確かめること。
此の前述の順序過程はすべての真理の探究で欠くべからざるもので、この過程を経ることによって初めて、真理の確実性が得られるのである。そしてこれだけの手続きを経て、確定した真理ならば、それまでの過程に於ては、最早それ以上何人も疑深く、其の真理を承認することに躊躇逡巡すべきではないと思う。   

教育学組織の内容 『創価教育学体系Ⅰ』

批判原理

同・不同ー論理的妥当の法則ー同異の法則ー必然の法則ー真偽の法則
当・不当ー生活に妥当の法則ー当否の法則ー当然の法則ー価値の法則

p113
教育の目的観念を構成するという文脈。




 先ず目的観が確立されたとして其の目的達成の手段は如何。之は教師が教育学に要求する所の価値ある方法観の決定である。此の方法には技術的方面と政策的方面とあるが、其の決定の手段には二の途がある。
一、哲学的に人生の目的観から演繹して決定するの途、
二、科学的に実際的の経験から帰納して決定するの途、
 前者が、教育哲学者の苦心するところの哲学的方法であるに対して、後者は実際的経験家の記録から帰納する科学的方法である。
 正当なる目的観は、人生の目的という人間の終局目的から割出されなければならぬが、方法観と同様に学者が哲学より考察せんとすることは、古来より行われたところであるが、これは学問発達史上より眺めると、概ね徒労に属して居る。方法観はどうしても、実地経験家の記録から弘く抽象されたものでなければなるまい。而してこれが完成に就いてはオーギュスト・コントの、所謂科学発達の歴史と同様の径路をとらねばならぬ。
一、神話的時代
二、独断的時代
三、合理的科学時代


第一期、他力盲従模倣、他力に対して、盲従し其の意味を無理界のまま模倣して、環境に屈服的生活をする時代
第二期、自力過信 自惚、自慢、自己の偶然的成功を、無理界に直覚的に過信し、自分よりも偉いものはないとして、妄信し、独断し、之を以て疑問解決の前提となす時代
第三期、自力他力の正当なる評価的認識 自己の分と同様に他人の経験をも比較統合したる、科学的合理的時代
 教育者に必要な教育方法学は、人間の本質等の分析的観察より生じて来はしない。やはり芸術の学が芸術の創作品及び其の創作の道程から湧出て来なければならぬと同様に、教師の生活の中から出る所の作品に相当する成績から生れて来なければならぬ。
 故に方法学が成立つためには左の条件を必要とする。
一、教師の実生活から帰納したものであるべきこと。
一、教師の生活中ために遭遇する会心の場合を反省して、真理に合したもの、即ち合理的なもの。会心の結果とは、即ち合目的の手段であって、その中には必ず真理が含まれて居るに相違ない。
一、仕事の反省的記録。
1価値観より選び分け、外部よりのより分け、
一、成功要素とその理由
二、失敗の原因の思考と要素
2分析的思考 内部よりのより分け、
一、因果関係の考察

p113


この章で教育学の体系を図示してる。
今だったらどうなるんだろう。
教育材料の中に環境も入るのか。
社会やら総合やら理科やらは、ほんと身の回りのものが教育材料になる。


何を会心の結果と評価するのか、それが問題。
それがⅣの教育技術鑑賞論だったか。ⅠとⅣで牧口先生も変化、進化しているみたいだけど、僕にはまだ明確に読み取れない。



創価教育学体系Ⅳ

「道徳学者は自らの学説をア・プリオリの一原理からではないとしても、一もしくは数個の実証科学、例えば生物学、心理学、社会学等から借り来った若干の命題から演繹し、そして彼等の道徳を科学的のものであると称している。余の採ろうとする方法は、決してこのようなものではない。余は科学から道徳を引き出そうとするものではなく、道徳の科学をつくろうとするものである。この二者は全く異なったことがらである。云々」といって居るが、之はそっくり余の創価教育学の研究に移して差支えはないと思う。余が教育方法を教育学の主眼として研究に於て採って来た方法は、やはり教育事実ということよりは、寧ろ教育技術を研究対象となし、それを観察し記述し、比較し分類して、その因果の法則に達せんとしたのであるからである。
「それ故に、かかる方法に拠るのでは、真に客観的なる結論に到達することができない。先ず第一に、これら一切の演繹の基礎をなす人間の概念は、正しく導かれた科学的推敲の所産でありえない。なぜなら科学は、この点に関し正確に吾々に説明しうるような状態に達していないからである。我々は、人間を構成する要素の若干を識ることから始めるが、しかしかかる要素は、我々が知っている居るよりも遙に多数であり、したがって我々の知っている要素の総和では、極めて不明確な一観念しか作りえないのである。それ故に道徳学者が自己の個人的信念及び個人的着想にまかせて人間の概念を決定するのは非常に危険であると言いうる。のみならず、たといかかる概念が完全に厳密につくられたときでも、推論によって人がそれから引き出す結論は、所詮憶測的のものでしかありえない。工学者が、確定的な理論上の原理から実際的帰結を演繹する場合でも、実際がこれを証明しない間は、彼の抽論の結果に対して彼は信を措くことができないのである。すなわち演繹は、それ自体では到底充分なる論証とはならぬのである。このことに関して道徳学者といえども決して例外なりえないであろう。前述のごとき方法によって道徳学者が定立する諸規準は、それが事実の検証に耐えざる限りは単なる仮定に過ぎない。これらの規準が人間のよく適合するか、どうかは経験のみが決定しうるのである。云々」(デュルケーム「社会分業論」緒論三八頁)

創価教育学体系Ⅳ』p110

牧口先生の考えが分かりやすく表れているところだと思う。

今でもよくある。
例えば脳科学の結論から演繹して教育を考えるとか。
そういう
科学から教育を引き出そうということではなくて、
教育の科学をつくろうとするものだと。