レッジョ・エミリアの教育の特徴。学習を可視化した記録(ドキュメンテーション)が学び、教えの過程に埋め込まれている。カルラ・リナルディの自覚。でも、世の中の優れた教師と言われる人たちは、同じことを意識していそう。そう考えると、これもパタンと考えられるかな。学習の一時的な結果であり、過程であるドキュメンテーションを解釈して、適切な支援ができる人。
 

レッジョ・エミリアのスタッフ、子どもたちの学習環境を考える時の光の具合みたいなことまでこだわって、教育をデザインしています。あと、確かアート専門で支援するスタッフがいることもあの素敵な感じを直接に生み出している要因だと思うけれど、あの細やかに考えて準備して行く先にレッジョ・エミリアの教育があるのだと思う。

カルラリナルディの本を読んで、思い出すのは(子どもたちへの信頼や子ども観などから)、カイさんやゴリさんだけど、あすこまさんが風越の漢字学習をどうするのかと悩んでおられるけれど、そうやって、子どもたちにとっての意味がある教育を考えて行く先にしか豊かな教育はないのだと思う。

 

アイパッドドキュメンテーションを自然に生み出す装置だと思う。

例えば、跳び箱で台上前転を撮影記録する。それを小グループで見合って、教師もその中に入り解釈して、次のやってみるに繋げる(この前提としてどのような台上前転がいいのかというイメージが共有できていないといけないけれど)。体育の他の人の授業でも見たことがありますし、自分でもアイパッドを体育の授業に持ち込むことがあるけれど、こういうことが自然に起きてくる。体育の授業が効果的になる要因は他にもたくさんあるだろうけれど、これも一つのパタンとして重ねられることで、今の時代は、アイパッドの活用法としてかなり普通に行われていることだと思う。レッジョエミリアの教育はこんなんじゃないけれど、ドキュメンテーション的なものは、普通にあるということ。

 
 
 
この本、すごくいいです。今までの不明だったことがだいぶ明らかになりました。レッジョエミリアの教育の背後にある考えや態度をかなり詳しく知ることができる本です。僕は、展示のビデオやプロジェクトを本にしたものしか見たことがないけれど、あの素敵な教育がどこからできるのか、その原因をだいぶ知ることができました。
 
自分は、ローリス・マラグッツィが亡くなった後も、進み続けるカルラリナルディの言葉にぐっときました。
https://www.amazon.co.jp/レッジョ・エミリアと対話しながら:知の紡ぎ手たちの町と学校-カルラ・リナルディ/dp/4623084329/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&keywords=レッジョエミリア&qid=1570331832&sr=8-1
 
教育に中立はあり得ないか・・・。
バランスをとるにしても、中立はない。これも大事ですね。