ドゥルーズの教育の遅れてくる効果というのを実感。プラトンイデアについて前によりもわかった気がする。
フッサールを応用している苫野さんの取り組みは、例えば友情とは何かみたいなテーマにしてもイデアを取り出そうする営みだと言えるのではないかな。そこに絶対的な真理はないとか、カントを批判してとか哲学史の先にある話だから色々あるのだろうけれど(進化している)、元々のシンプルなところは変わらないという。
プラトンのやっていることって、多くのところが概念が変わっても、概念の創造があっても、フッサールと変わらないようにも思う。哲学だからかっていうのもあるだろうけれど。あの時にも恋とは何か、正義とは何か、対話をしながら、そのイデア(本質)を探っていた。
ドゥルーズプラトンについて語っていたところをもう一度、見直して、プラトンも再読してみよー。
ドゥルーズの話を思い出すと、プラトンイデアという概念は当時のギリシャの民主主義的な状況で、色々な考えがディスカッションされるような状況で、何がよりよい考えなのか判断するために生まれたということ。それがそれでしかありえない本質がイデア(ちょっと言葉が正確でないかもしれないです、記憶なので。それがそれでしかあり得ないものかな。本質という言葉をドゥルーズは使っていなかった)。