分析の始まりは、部分に分けて考えること。
「悟性がその概念によって思惟する一切のものを除去し、経験的直観以外のなにものも残らぬようにすることによって、感性を孤立させる」カントの超越論的感性論の前提。
 
除去するっていうのは、フッサールでいうエポケーのことですね。
 
ここが出発点で、現象と物自体の区別が出てくる。カントのこの思想がインストールされるとこれが当たり前になってきて、その前の感じを忘れていたことに気づいた、ちょっとなんとも言えない気持ちになった。
 
 
カント以前の素朴に考えている物自体と、カントのいう物自体は違う。わたしたちは直観(感性で直接観察という意味)する世界、映画のような写真のような今目の前に広がって見えてるものを、素朴に物自体だと考えていた。今触っているパソコン、食べているもの、家、感覚できるものはどれも物自体だと。しかし、今、直観しているものはどれも人の主観を通して認識しているもので物そのものではない(例えば生まれた社会によって、人によって虹の色の見え方は違う。他の色の見え方も人よって違うことがある。自分が直観している表象は誰にとっても同一ではないのだ)。そこで物そのものではない直観しているもの、表象を全てを現象と呼ぶことにした。決して感性では直観できない、物そのものを物自体と呼ぶ。
 
悟性は対象を持たないものについて認識することができない。そこで悟性の限界が明らかになる。悟性の限界は、感性の限界にある。感性を超えるものについて悟性は認識することはできないのだ。
 
こうやって進めていく分析論というものがあって、でもその後に総合があるのですが、なんとも複雑になっていて、自分のカント理解は途中で止まっているのだと思いました。
 
早くさきが知りたくてスピードを上げて読んだけど、案の定、よくわからなかったw
 
このあと超越論的対象Xという用語が出てくる。すぐに柄谷行人を思い出したのだけど、彼の読みが合っていれば(他力本願)、
悟性は感性に限定されるのだけど、それでも物自体について考えることを要請されるのだという展開になるはず。その要請される物自体を確か超越論的対象Xという。
 
と少し見通し持って、続きを休日にゆっくり読んでみる。
 
柄谷行人トランスクリティークも再読しよう。何回目だろうwこれもいい具合に忘れていて、何度再読しても面白い。