ここが牧口常三郎全集第5巻p229の注釈で引用されているところです。めっちゃ面白いところ。価値は実在の極限概念とされるのだ。ここで、左右田喜一郎は数学の微積分の極限の思考法を左右田の思想に応用しているのだ。僕はこの考え方を教育学に応用して、教育の極限概念を経験とするのである。
 
牧口は、「価値の概念は実在というが如き認識の極限の概念ではない。」「価値の概念には、之を説明するに用ひらるべき関係といふ概念が其の奥にまだ存在する。関係といふ概念となると、最早物といふ概念と同じ等位にあつて実在といふ概念に包容される。概念はここで極限されてそれ以上は定限されない。」という。
 
カントが理性を用いる勇気を持て!と言ったけど、まさにそういう人なのだ、牧口常三郎は。
 
どっちが正解なんだろうw
左右田喜一郎はカントを素直に受けて、現象と物自体への関係に数学でいう極限概念のようなものがあると考えている。
 
牧口からすると実在に関係が含まれて価値も含まれると。つまり実在が究極の極限概念だということ。
 
『文化価値と極限概念』左右田喜一郎p275
 
結局、最終的にカントは可能的経験と叡智界の2元論を保っているということか。それが表裏一体の関係のあると。
 
認識できる部分(現象)と考えてあるとしか考えられない、理性が要請する部分と合わせて実在と考えてもいいのかな。そうすると牧口も左右田も考える時のそのモードによってどちらも正解ということになるのだと思う。
 
認識に寄せれば、必ず2元論になる。でもその奥底も含めれば表裏一体の一つの実在と考えることもできる。
 
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この段落、柄谷の読みと通じている。
「一なる可能的経験」と物自体の「叡智的性格」は表裏一体か。バラバラで一緒なんですね。両立。
「カント哲学試論」p250福谷茂
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