祈ることの現象学
「人がこの世界でできることは、世界を正しい方向に一インチでも動かそうとする努力だ。それができれば、人は多くのことをやり遂げたことになる」ブーバー
僕は自転車に乗っている時も南無妙法蓮華経と祈っている。歩いている時も祈っている。なぜか。その理由の一つは、現在の本当の意味を思い出し、今日をよりよく生きるためである。ただ生きていれば、気づいた時に物心ついて、その後に死んでいく。しかし、それだけだろうか。私は物理的に間違いなく、この宇宙の一部、変化である。そういう大きな視点を祈ることで思い出している。思い出すことで生き方が変わるのだ。存在→(祈る)よく生きること。
 スピノザは、これを理解したら決して壊れないような幸福があったとしたらどうだろうかと問題提起した。結論から言うと自然即神を理解することである。要するにこの宇宙=神であり、その宇宙には無限の属性、可能性が備わっている。私という人間もあなたも、私が入っているこたつも宇宙の一つ一つの現れである。どれも自然(宇宙/神)の現れである。
日蓮も似たように考える。この世界の現象は全て一法から生じる。その一法が南無妙法蓮華経である。南無妙法蓮華経≒神である。全ては南無妙法連教の変化である。もちろん、スピノザ哲学と日蓮の思想はそれぞれ違うところがある。
ブッダは、死んだ後のことについて、あるともないとも言えない(無記)と言う立場を表明したが、この私の生は今世だけだと断定する世界観と、いや、死んだ後が続くか、何もなくなってしまうかは、わかるともわからないとも言えない、もしくは永遠の続くのだ、もしくは、さらには悪しき因果論みたいに、悪いことをしていたから、この世界で悪く生まれるのだと考えるのか、その人がどう生命を捉えるかという生命観で、生き方は変わってくるだろう。
日蓮は祈ることは鏡を磨くようなモノだと言った。僕は祈らないと、このクソ短いこの世の生にへばりついたような生き方をしてしまうと思う。なんと言うのだろう、この生命、存在の真の姿、永遠があるのではないだろうか。それと良心には関係があるのではないだろうか。そんなことを祈りながら考え、自分を裏切りながらも、今日を生きてきたのだ。
圏論の応用。祈ることで変わるのだ(人生【生き方】が変わるのだ)、確実に。だから今も、何があっても続けているのだ。圏論というか関数か。関数は圏論(数学)の一部だ。
物理学、化学の知見と祈ることが繋がっているのが不思議なことなのである。神や南無妙法蓮華経といった概念のおかげか。
ただ楽しければいいのだろうか、自分さえよければいいのだろうか、生まれてから死んで消えていくだけなのだろうか、そういったことを超えていくような視点、姿勢、良心を祈ることで思い出せるのだと思う。
ただ意識というのは、脳神経の働きだ。脳の終わりとともに意識は、消えるだろう。その後に残ることはあるのだろうか。科学では、決してわからないから信仰なんだな。大切なのは、その信仰によって、よく変わるか、悪く変わるかなのだ。
概念というのは面白い。
「神」は哲学史上、今も重要な概念であることは変わりない。
人間だけが、この地球上で、そういった存在の可能性について考え信じることができる。
あとは、赤ちゃんが母の乳を吸うみたいに祈るということもあると思う。