シャーリー

シャーリークラークの実践いいな。
冬休み前に途中で終わってしまったWWにするかちょっと迷い中だけど、お話作りの学習。
文を読み直してよくするということを独力で学ぶのは、難しいので、人によっては、途中の作品で、全体でフィードバックを欲しい人を募って、パタン・ランゲージの学会みたいに(あれは、シャーリークラーク的な実践だとも思った)、途中の作品について検討するというのも、みんなにとって、良い学習になりそうです。
 僕も個人的に、2年生で求められる、割と平均的な文量(教科書を基準にしているけど)は、少ないので、子どもたちには、音読チェックをして直してから見せるように言っているけど、僕とも一緒に音読チェックをする(35人全員。一人でも子どもたち同士でもまだ難しいので。そのうち、経験を積み重ねていけば一人でやれるようになる)。音読チェックしていない人でわかる時は、もう一度、音読チェックして直してから作品を持って来るようにしたり、一緒に音読チェックする中で校正したり修正したりもする。この結果、少しずつだけど、4月の頃よりは、子どもたちは、一人で書ける力が増えていることを、最初に持ってくる作文などを見ると観察できます。
精読もそうですが、独りで学ぶのは難しいことはあると思う。本当に賢い子は独力でも学べるのだろうか。多分、無理だと思うんですよね。教えてもらわないとわからないことって、あるんですよね。図工の作品も、作文の作品もそうですが、見直して、推敲、洗練していくとか。
今日、途中の作品でフィードバックをもらいたい人を募ってみようかな。
フィードバックという言葉も、今年度は、生活の「あそんで、ためして、くふうして」という単元で教えました。一年生に向けて、遊びのお店を作るのですが、やってみて、みんなでフィードバックしあって、お店を改善していく。その過程は、作文でも図工の作品制作でも共通してやれることだと思う。こういう効果的なパタンを大切にしています。

ゲド戦記 二巻読了

三巻読みたいと思えるくらいには、よかった。二巻は、自由がテーマの作品でした。

今の自分に刺さる内容だった。ゲド戦記は、ジブリの映画を見た後にどうしても最後まで一巻を読み進められなかった。今、やっと読めたのですが、そういう時がきたのだと思う。15年間くらいかかったけどw

ゲトとテナーのやり取りで、生まれ変わるためには、死ななくてはならないという話がある。

僕も19歳の時くらいに、一回死んだと思って、人生をやり直そうという時期がありました。

そこで自分が賭けたもののが削ぎ落とされていった。残っているものもあって。ミドルエイジクライシスというか、飽きという、大きな目標をもてなくなるというか、次の壁みたいなのが出てきた。

去年の十二月で43歳になった。
39歳になった時にまた19歳の時みたいにできないかなと思ったけどその時と全く同じように無理だとわかった。。

実家に帰ると、自分のルーツに戻るというか、そういう部分もありつつ、削ぎ落とされてしまった部分でもう戻ってきそうにないものも確認しつつ、これからについて考え続けている。人生で2回死ぬ必要なはないかもしれない。でも、そぎ落ちていったものについて死んでしまったのかもしれないとも思う。19歳の時もそうだけど一回死んだと思って生きると言っても、その前の自分とは実際には、地続きなのだ。今も19歳よりも前の自分の言動の結果を生きている。

自分もテナーみたいな感じではあったのかもしれない。にもかかわらず、どう生きるのか。テナーの昔の経験は、無駄に終わるのだろうか。それを生かすことはできないのだろうか。それと似たようなことは、僕の地続きのテーマではある。多分、間違いなくそれなりにできると思う。

やっぱり論文のチャレンジはやろう。それは、理性の公的利用という部分のチャレンジ。

目の前の仕事を大切にしたいという思いは変わらずにあるから、それを丁寧に続けていきたい。今日から仕事をはじまるけど、しっかり準備したい、仕事したい。

まあ、今の時代、電子書籍でもYOUTUBEでも、そこで世界に出せば、それは理性の公的な使用と言えるのかもしれない。

中田さんとかもそうだけど、芸能界とか、学術界とか、そういう権威の世界があるけど、それなしでも認められれば、それで影響もあるし、いいとも言える。

ただ学問は、別次元の人類の営みだとも言える。学問の尊さは、別次元にある。そこに対する憧れが、まだあるし、それはなくならないだろう。その成果から学び続けているし、その楽しさや価値を知ったから。

パタン・ランゲージの学会は、下書きにフィードバックをもらえるのが面白いと思う。好きに書いてみて、主張してみて、門前払いになるかもしれないけど、やはりチャレンジはしてみよう。次の日本での開催がもしきたら、締め切りまでに間に合うようにしたい。そういう意味で、少しでも去年、書き始められてよかった。

テナーの自由と、自分の自由と重なる部分があって、そこで必要な精神というか、あり方は同じなのかもしれない。それはある意味、テナーと同じ死んでまた生まれ変わることなのかもしれない。

あと理論と実践の往復は当たり前のようにやっているので、それを言語化して伝えることには意味がありそうなので、日記と同じですね。日記のテーマは伝える価値があると思うものを選ぶことが基本だと思うから(そうではない場合もあると思う)、自分が実践していることで他の人に役立ちそうなものは、共有できたらと思う。

 

因果推論に関しては、ジュディア・パール(2023)参照。こんなんでいいかもしれない(少しくらいは説明してもいいかもしれないけど、がっちりパタン記述はしない。他のパタンもそうだけど、論文では軽重をつけて伝えた方がいい。全体を示しつつ、そその中で伝える具合例、パタン記述を厳選して伝える)。AIも使いつつ、軽重をつけてまとめれば、割と書くだけなら簡単かもしれない。メタパタンについても、もうパタン記述してあるものを加筆修正でいいと思う。

僕のパタン・ランゲージの運用に関する考えも、変わらずなので、それが通用するのかも試してみたい。通用しなくても、自分には通用しているし、それがその人たちに通用しなくても、自分のように通用する人が必ずいると思うので(自分に通用しているから、きっと同じような、似たような状況の人には通用するだろう。それは、物語の登場人物に自分を重ね合わせることができることと同様に)。

 
イントロダクション考えて、Overviewで意欲が絶えてしまった。この後、短くまとめるということに興味がもてないのだ。
「公(パブリック)」の意味の転倒については、柄谷行人のカント読解から来ていて、それを教育学に応用できてよかった(そもそもの意味から離れてしまっているかもしれないけど、それでもいいのだ)。
普通の日本の公教育は、国民、日本人を育成するという意味合いがあるだろうけど、それだけではないということを考えて、「世界市民教育」というキーワードを使って言語化できた。
 あとイントロダクションのところで、歴史や社会状況から教育やパタン・ランゲージについて考えるということもできてよかった。
普段、仕事では、パタンだけではなくて、子どもたちを知ることや、具体の教科の知識など、欠かせない。
どうやってパタンを使って仕事をしているのか。興味のある人が参考にし易いように教育実践記録を書いていこうかな。その中で、パタンや理論が練られることも時にあるかもしれない。
 
 
とりあえず語尾とか整っていないけど、さっきのやつをまとめてみた。である調に整えようかな。
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AsianPLoP
一つの世界市民教育のためのパタン・ランゲージ
 岩井輝久
Abstract
本論文では、世界市民教育のためのパタン・ランゲージを提案する。本来の公教育は、カントのパブリック(「公」)の考え方のコペルニクス的転回から世界市民教育を目指すものであると考えた。通常、国家のための国民の育成を公教育と考えるが、カントの考え方からすれば、それは「理性の私的使用」であり、私的な教育となる。公的な教育は、国民を育てるのと同時に「地域に生き世界に伸びる」(大阪大学のモットー)、世界市民の教育を目指すべきである。また、教育の極限概念(教育状況を極限まで抽象化した概念)を「経験」であるとし、教育とは、意図的に目的的に設計、構造化された「経験」であると定義した。牧口常三郎が示した「文化の人格」を手がかりに人格形成を考え、この社会を構成する一人一人の生き生きとした人格形成の先に、より良い社会の形成があるという、パタン・ランゲージの問題解決の図解を示した。また、クリストファー・アレグザンダー(Cristopher Alexander)、牧口常三郎、ジュディア・パール(Judea Pearl)の考え方を参考にパタンを構成する原理として「経験から出発すること」「価値を目標とすること」「経済を原理とすること」「因果推論(反事実)」をメタパタンとした。このメタパタンによって構成した世界市民教育のためのパタンを紹介する。
Introduction
現代社会は、グローバル化、情報化、そして急速な技術革新によって、かつてないほど複雑化しています。このような状況下で、教育は、単に知識を伝達するだけでなく、変化に対応し、持続可能な社会を築くための、より高度な役割を担う必要があります。教育は、社会の複雑さと変化に対応できる人格を育て、個人が自己実現を達成し、社会の一員として積極的に貢献できるように支援することが不可欠です。
本論文では、世界市民教育のためのパタン・ランゲージを提案します。本来の公教育は、カントのパブリック(「公」)の考え方のコペルニクス的転回から世界市民教育を目指すものであると考えます 。通常、国家のための国民の育成を公教育と考えることが多いですが、カントの考え方からすれば、それは「理性の私的使用」であり、私的な教育となります。公的な教育は、国民を育てるのと同時に「地域に生き世界に伸びる」人格、つまり世界市民の教育を目指すべきです 。
人類の歴史を振り返ると、社会構造は大きく二つの形態に分類できます。一つは、ゲマインシャフト(共同体)であり、血縁、地縁、伝統、感情的な結びつきによって特徴づけられます。この社会形態では、個人は共同体の一員として、その役割や価値観を共有し、共同体の維持と発展に貢献します。もう一つは、ゲゼルシャフト(社会)であり、個人の利益、契約、合理的な計算によって特徴づけられます。この社会形態では、個人は自律した存在として、自身の目標を追求し、社会的な組織や制度を通じて他者と関係を築きます。
歴史的に見ると、人類社会は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行してきました。産業革命以降、都市化が進み、人々は伝統的な共同体から離れ、より合理的な社会組織の中で生活するようになりました。しかし、現代社会においては、ゲゼルシャフト的な側面が強調される一方で、ゲマインシャフト的な繋がりや価値観の重要性も再認識されています。例えば、地域コミュニティの活性化や、企業におけるチームワークの重視などは、ゲマインシャフト的な要素を現代社会に取り入れようとする試みと言えるでしょう。
教育の場においても、この二つの社会形態のバランスをどのようにとるかが重要です。従来の教育は、知識の伝達や個人の能力開発に重点を置いたゲゼルシャフト的な側面が強かったと言えます。しかし、現代の教育は、個人の自律性を尊重しながらも、他者との協調や共感を育み、社会の一員としての責任を自覚させることが求められています。これは、ゲマインシャフト的な価値観を現代の教育に取り入れる試みと言えるでしょう。
このような背景を踏まえ、本論文では、教育におけるパターン・ランゲージの可能性を探ります。パターン・ランゲージは、経験に基づいた知識体系であり、具体的な問題解決に役立つ実践的な知識を提供します 。教育におけるパターン・ランゲージは、個人の学習経験を向上させるだけでなく、教育者自身の実践を改善し、コミュニティ全体の教育力を高めるための強力なツールとなり得ます 。特に本論文では、牧口常三郎が示した「文化の人格」を手がかりに人格形成を考えます。そして、この社会を構成する一人一人の生き生きとした人格形成の先に、より良い社会の形成があるという、パタン・ランゲージの問題解決の図解を示します 。
パターン・ランゲージは、単なる知識の伝達ではなく、学習者が自ら考え、行動し、社会と関わることを促す教育実践を支援します 。それは、教育のゲゼルシャフト的な側面(知識、スキル)とゲマインシャフト的な側面(関係性、価値観)を統合する可能性を秘めています 。パターン・ランゲージを活用することで、教育者は、学習者の個性を尊重しながらも、社会的なつながりを育み、より人間的な教育を実現できるでしょう。また、クリストファー・アレグザンダー牧口常三郎、ジュディア・パールの考え方を参考に、パタンを構成する原理として「経験から出発すること」、「価値を目標とすること」、「経済を原理とすること」、「因果推論(反事実)」をメタパタンとします。このメタパタンによって構成した世界市民教育のためのパタンを紹介します 。
本論文では、まず、パターン・ランゲージの理論的な背景を整理し、その教育における意義を明らかにします。次に、教育実践の中で実際に活用できる具体的なパターンを提示し、それらのパターンが、学習者の経験、教育者の実践、そして教育コミュニティ全体にどのような影響を与えるのかを考察します。最後に、パターン・ランゲージの教育への適用可能性、課題、今後の展望などについて議論します。
本論文が、教育におけるパターン・ランゲージの理解を深め、より良い世界市民教育の実践に貢献することを願います。
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notebooklmをまた使ってみた。「人材」という言葉が好きではないので、「人格」に変えた。それだけしか、修正していないのですが、平易な説明でこれだけ書けちゃうのだから、すごいと思う。

この後、Abstractの内容を踏まえて書き換えを命じてみた。
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「人類の歴史、現在の社会的背景を踏まえて、ゲゼルシャフトゲマインシャフトの概念を使って、パターン論文のイントロダクションを学者になって書いてみて。」
Introduction

現代社会は、グローバル化、情報化、そして急速な技術革新によって、かつてないほど複雑化しています。このような状況下で、教育は、単に知識を伝達するだけでなく、変化に対応し、持続可能な社会を築くための、より高度な役割を担う必要があります。教育は、社会の複雑さと変化に対応できる人格を育成し、個人が自己実現を達成し、社会の一員として積極的に貢献できるように支援することが不可欠です。
人類の歴史を振り返ると、社会構造は大きく二つの形態に分類できます。一つは、ゲマインシャフト(共同体)であり、血縁、地縁、伝統、感情的な結びつきによって特徴づけられます。この社会形態では、個人は共同体の一員として、その役割や価値観を共有し、共同体の維持と発展に貢献します。もう一つは、ゲゼルシャフト(社会)であり、個人の利益、契約、合理的な計算によって特徴づけられます。この社会形態では、個人は自律した存在として、自身の目標を追求し、社会的な組織や制度を通じて他者と関係を築きます。
歴史的に見ると、人類社会は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行してきました。産業革命以降、都市化が進み、人々は伝統的な共同体から離れ、より合理的な社会組織の中で生活するようになりました。しかし、現代社会においては、ゲゼルシャフト的な側面が強調される一方で、ゲマインシャフト的な繋がりや価値観の重要性も再認識されています。例えば、地域コミュニティの活性化や、企業におけるチームワークの重視などは、ゲマインシャフト的な要素を現代社会に取り入れようとする試みと言えるでしょう。
教育の場においても、この二つの社会形態のバランスをどのようにとるかが重要です。従来の教育は、知識の伝達や個人の能力開発に重点を置いたゲゼルシャフト的な側面が強かったと言えます。しかし、現代の教育は、個人の自律性を尊重しながらも、他者との協調や共感を育み、社会の一員としての責任を自覚させることが求められています。これは、ゲマインシャフト的な価値観を現代の教育に取り入れる試みと言えるでしょう。
このような背景を踏まえ、本論文では、教育におけるパターン・ランゲージの可能性を探ります。パターン・ランゲージは、経験に基づいた知識体系であり、具体的な問題解決に役立つ実践的な知識を提供します。教育におけるパターン・ランゲージは、個人の学習経験を向上させるだけでなく、教育者自身の実践を改善し、コミュニティ全体の教育力を高めるための強力なツールとなり得ます。
パターン・ランゲージは、単なる知識の伝達ではなく、学習者が自ら考え、行動し、社会と関わることを促す教育実践を支援します。それは、教育のゲゼルシャフト的な側面(知識、スキル)とゲマインシャフト的な側面(関係性、価値観)を統合する可能性を秘めています。パターン・ランゲージを活用することで、教育者は、学習者の個性を尊重しながらも、社会的なつながりを育み、より人間的な教育を実現できるでしょう。
本論文では、まず、パターン・ランゲージの理論的な背景を整理し、その教育における意義を明らかにします。次に、教育実践の中で実際に活用できる具体的なパターンを提示し、それらのパターンが、学習者の経験、教育者の実践、そして教育コミュニティ全体にどのような影響を与えるのかを考察します。最後に、パターン・ランゲージの教育への適用可能性、課題、今後の展望などについて議論します。
本論文が、教育におけるパターン・ランゲージの理解を深め、より良い教育実践の実現に貢献することを願います。

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修正後
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イントロダクション
現代社会は、グローバル化、情報化、そして急速な技術革新によって、かつてないほど複雑化しています。このような状況下で、教育は単に知識を伝達するだけでなく、変化に対応し、持続可能な社会を築くためのより高度な役割を担う必要があります。教育は、社会の複雑さと変化に対応できる人材を育成し、個人が自己実現を達成し、社会の一員として積極的に貢献できるように支援することが不可欠です。
本論文では、世界市民教育のためのパタン・ランゲージを提案します。本来の公教育は、カントのパブリック(「公」)の考え方のコペルニクス的転回から世界市民教育を目指すものであると考えます [Abstract]。通常、国家のための国民の育成を公教育と考えることが多いですが、カントの考え方からすれば、それは「理性の私的使用」であり、私的な教育となります。公的な教育は、国民を育てるのと同時に「地域に生き世界に伸びる」人材、つまり世界市民の教育を目指すべきです [Abstract]。
人類の歴史を振り返ると、社会構造は大きく二つの形態に分類できます。一つは、ゲマインシャフト(共同体)であり、血縁、地縁、伝統、感情的な結びつきによって特徴づけられます。もう一つは、ゲゼルシャフト(社会)であり、個人の利益、契約、合理的な計算によって特徴づけられます。歴史的に見ると、人類社会はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行してきましたが、現代社会においては、ゲゼルシャフト的な側面が強調される一方で、ゲマインシャフト的なつながりや価値観の重要性も再認識されています [Me]。
教育の場においても、この二つの社会形態のバランスをどのようにとるかが重要です。従来の教育は、知識の伝達や個人の能力開発に重点を置いたゲゼルシャフト的な側面が強かったと言えます。しかし、現代の教育は、個人の自律性を尊重しながらも、他者との協調や共感を育み、社会の一員としての責任を自覚させることが求められています。この視点から、**教育の極限概念(教育状況を極限まで抽象化した概念)を「経験」**であるとし、教育とは、意図的に目的的に設計、構造化された「経験」であると定義します[Abstract]。
このような背景を踏まえ、本論文では、教育におけるパターン・ランゲージの可能性を探ります。パターン・ランゲージは、経験に基づいた知識体系であり、具体的な問題解決に役立つ実践的な知識を提供します [Me]。教育におけるパターン・ランゲージは、個人の学習経験を向上させるだけでなく、教育者自身の実践を改善し、コミュニティ全体の教育力を高めるための強力なツールとなり得ます [Me]。特に本論文では、牧口常三郎が示した「文化の人格」を手がかりに人格形成を考えます[Abstract, 38]。そして、この社会を構成する一人一人の生き生きとした人格形成の先に、より良い社会の形成があるという、パタン・ランゲージの問題解決の図解を示します [Abstract]。
パターン・ランゲージは、単なる知識の伝達ではなく、学習者が自ら考え、行動し、社会と関わることを促す教育実践を支援します [Me]。それは、教育のゲゼルシャフト的な側面(知識、スキル)とゲマインシャフト的な側面(関係性、価値観)を統合する可能性を秘めています [Me]。パターン・ランゲージを活用することで、教育者は、学習者の個性を尊重しながらも、社会的なつながりを育み、より人間的な教育を実現できるでしょう。また、クリストファー・アレグザンダー牧口常三郎、ジュディア・パールの考え方を参考に、パタンを構成する原理として「経験から出発すること」、「価値を目標とすること」、「経済を原理とすること」、「因果推論(反事実)」 をメタパタンとします[Abstract]。このメタパタンによって構成した世界市民教育のためのパタンを紹介します [Abstract]。
本論文では、まず、パターン・ランゲージの理論的な背景を整理し、その教育における意義を明らかにします。次に、教育実践の中で実際に活用できる具体的なパターンを提示し、それらのパターンが、学習者の経験、教育者の実践、そして教育コミュニティ全体にどのような影響を与えるのかを考察します。最後に、パターン・ランゲージの教育への適用可能性、課題、今後の展望などについて議論します。
本論文が、教育におけるパターン・ランゲージの理解を深め、より良い世界市民教育の実践に貢献することを願います。
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お話を読み比べて考えた時に、ライバル(敵)について考えた方がいいという考えが出てきたけど、それはプロップが見つけたお話の構造と変わらない。この構造は絶対的なものではないので、それについては、この構造の例外を示して確認する(ローベルとかの『お手紙』など既習したものがあるので、その事例を想起するだけでいい。他にもモデル文として読んだ作品もそうだから、そういうパタンがあてはまらない事例も確認する。お話を作る時にライバルや敵を考えてもいいかもねくらいのノリ。ローベルの『ズボンつり』は、ねずみのおじいちゃんが嫌いな子どもたちが出てくる。そういう主人公が苦手とか嫌いな登場人物もこのパタンに含まれるかもしれない)。

偉大な学者だろうが、子どもたちだろうが見つかるパターンや構造は同じなのだ。

自分は、フレッチャーのようにミニレッスンで小出しに、物語に必要なことを教えるというよりは、アトウェルでいうとジャンル学習、牧口常三郎でいうと文型応用主義の考え方で、こういう視点について考えられるといいパタン、求められるものを大体構成してしまう。それで、その後の展開、状況に応じてミニレッスンなどで付け足していく感じ。今年度、やってみる自分の自分への分析。

今回、お話作りのジャンル学習(WW)は、書き換え真似っこコースとオリジナルコースと選べるようにした。
共通する足場がけとそれぞれのコースの足場がけがある。
 昨日は題材集めを2時間かけてやった。超ロングレッスン。いくつかの作品を振り返ったり、読み比べたりして作ってみたいお話を考えた。見たことを書く、言ったことを「」を使って書くなど、日記とお話作りとの共通点にも着目するように促した。それぞれのジャンルの作文の、それなりの質のある文章に繰り返し現れるパターンに着目するようにして、質の高いお話の良いイメージを具体的にもてるようにした。こういうった視点(他にも問題と解決、ふしぎなことが起きるなど)については、アトウェルのように箇条書きで書き出して可視化している。そして、コースを決めて、45分間、いくつかの登場人物をワークシートに沿って作った。今日は書き出すところ。
フレッチャー的なWWに繋げていくかは、子どもたちの様子をみて決めようと思う。毎週日記の宿題が週末に出ているので、作文の提出を求めるようにすれば、それでフレッチャー的な自由作文を残り3ヶ月でも継続できるようになる。日記もいいけど、お話作りや、これからやる詩の創作のジャンル学習も含めて、色々な作文のを見れるのは楽しいかもしれない。
今日もミニレッスンを挟む、ロダーリの短い作品で。なんの問題と解決の構造もない作品だけど、「もし〜だったら」と楽しい、幸せなことばかり考えている作品を二つ。問題と解決があるというのを条件にしようと思っていたけど、そういうのもいいと思った。この作品には挿絵がないけど、子どもたちがこういう作品で絵を描いたら素敵な絵本になると思う。
1、2時間目 お話を読み比べて、良いお話をつくるには何が必要か考える
3、4時間目 ファンタジーのお話を試しに作ってみる
5、6時間目 題材集め(登場人物の設定など)
7、8時間目 書き出す(今日)
指導書かな、それの計画の時間より多くなるけど、読み書きの連携があるところで子どもたちの言語能力が大きく伸びることは間違いないので、時間をかけてやる価値はある。
子どもたちは、これまでのいくつかの同じジャンルの文章を読み比べ(例えば本の紹介文)、同じ構造やパターンを捉え、それを使って、日記や本の紹介文、説明文などのジャンル作文を作ってきています。それぞれ着実に経験を積み重ねることで書けるようになってきている。これまで何度も繰り返して学び方をお話(物語)作りに応用するだけ。