振り返り

一晩寝たら30歳。
全然昨日の日記に書いたとおりになっていないけれど、
ビールをちびちび飲みながら20代を振り返ろうと思います。


20歳になる前。19歳。
池田先生と戸田先生の「生命論」を読み、
信仰をはじめる。自暴自棄と無気力で死んでしまいそうだった自分が蘇生する。生命力がなさすぎて消えてしまいそうだったがもう一度まともに生きようと思った。予想を超える自分の世界の変化で戸惑う。


20歳で創価大学経済学部に入学。学問と信仰を徹底的にやろうと決意をする。
社会科学の名著を通してまともな科学的な思考に触れる。世界が灰色になるまで思想史を学んだ。ちょっと言いすぎか。数学も学びなおした。当然すっきりしないものが残るのですがある程度すっきりするまで本を読みきった。これも予想していなかった自分の世界の変容があり戸惑う。


創価学会の学生部は大学三年生の終わりに円形脱毛症になるまでがんばった。1000万の戦いと言って選挙がたくさんある季節だった。政治についても、ものすごくまじめに考えた。


大学一年生の時には写真部。おとなっぽいかっこいい人がたくさんいる写真部でした。徹底的にこだわって芸術に取り組む写真部でした。徹夜でOKがでるまでプリントをしたときが忘れらない。それに付き合った先輩。みんなで全身全霊でこだわってつくった展示が忘れらないです。


写真部をやめて大学2年生から学生平和推進委員会に入った。イラク戦争、歴史教科書問題などについて学びました。東京外語大学民族学校出身者に対する差別問題のシンポジウムを開いた。その年から東京外語大学民族学校出身の受験資格を認めたのでした。理不尽な悪と言論であきらめないで戦うと世界はよい方向に変わっていくことがあることを経験できました。自分は何もしてないけれど…。ものすごく優秀な人がいるところで触発を受けました。ゲーテの研究で京都大学の大学院に行った先輩が図書館で燃え尽きるように背もたれにもたれて寝ていたのが忘れられないです。十代のサッカーの時と同じ感じを味わった。サッカーが凄くうまい友だちがいて敵わないなと思った。このときも同じだ。あまりに頭脳がパワフルなので、こりゃあ敵わないと思った。大学院進学をやめた理由の一つはここにあったかもしれないです。一番の原因は研究したいことがはっきりしていなかったことか。


大学院進学はしないで、大学を卒業した時の8月くらいからペンギンセミナーで塾講師になる。はじめて子どもの前に立ったときの緊張は忘れらないです。過労死するかと思うくらい忙しかった。その会社の歴史で過労死した人はまだいないだろうということに希望をもったのでした。大変だったけれど子どもたちに関わらせてもらう楽しさを教えてもらいました。コンパクトに教えることも学んだ。この時期に岩瀬直樹先生の著作に出会う。この本は学校の教育の可能性を感じさせてくれて、小学校の先生になる方向に心を強く固めてくれました。本当にやりたいことが塾じゃないところにあると。



塾を退社して再び大学へ入学。免許取得のため。
特別学校支援員として小学校で免許取得まで働く。
とても落ち着いた学校だったと思うけれど学力に問題があったのは、
今となってみれば原因について思うところがある。
算数は45分の授業で一問を解くという問題解決学習でした。単純に問題を解く量が少なすぎて無駄が多かったかもしれないです。授業の見た目は美しかったかもしれないですが。でもたくさんのことを学びました。技術も精神も。


2年かけて免許をとって
はじめて勤めた学校は特別支援学級の担任でした。
これも本や特別学校支援員で普通学級の補助をもとに考えていたことがまったく通用しない世界で考えさせられるものがありました。そして2ヶ月で責任を終えた。


つぎはその年の11月くらいから普通学級の4年生。はじめての普通学級担任。彼らも今は6年生か。


次の年度は2年生。はじめて年度はじめに担任。


次の時は敬愛する先生のクラスの担任。これが今年の5月から夏休みくらいまで。2学期からはまた違う学校で4年生の担任。


いろいろありましたが思うのは子どもたちが本を好きになって本を読めるようになってくれたことが自分は一番嬉しいかったです。自分は。その道を深めようと思います。こういうふうになったらいいなという社会のビジョンがある程度ある。そのための成熟した市民像もある程度ある。世界平和とすべての人の幸福を勝ち取るために教育があると思う。


自分の変容に戸惑い続けた、今も。
でもよくチャレンジをした二十代だった。その点後悔はないです。


それにしても一日一日が矢のように過ぎ去っていく。
研究授業としてリーディングワークショップを提案できる人になりたいかな。
特にブッククラブは構造的に優れているのでできるだけはやく普及されることを望みます。