午前中『啓蒙について』『人類の歴史の憶測的な起源』『世界市民という視点から普遍史の理念』という論文を読みました。


カントの洞察は鋭くて楽観も悲観もしていないかなと思いました。哲学的考察から生まれる明るさというかな、それは楽観でも悲観でもない価値がある。理性の使用は私的と公的と区別できる。今も「啓蒙されつつある時代」だろうけれど、理性の公的な使用は宗教の事柄の面でも立法など政治的な面でも自分のまわりにはありましたし、今もありますし、増えたり減ったりしてきたような印象がある。でもたぶん積み重ねだから全体として前に進んでいるのだと思う。これは印象でたんなる楽観なのかもしれない。どこへ向かっていきたいのか、いくべきなのか、見通しがもて、そのことを考えるための頼もしい手がかりになったと思います。


読みながらジェフリーサックスとか思い出した。あの人は本物の学者だけど、市民も学者になることが民主主義では大切なのだと思う。大学も他の学校も市民の学者を育てる使命が重要なのかも。公的に理性を使用すること。


「宗教においては未成年状態がもっとも有害であり、」『啓蒙とは何か』


「もの思う人間は苦悩を感じる。これはもの思わぬ人は知らない悩みであり、あるいはこの苦悩から道徳的な堕落が発生するのかもしれない。この苦悩は、世界のすべてを支配しているう神の摂理に満足できないために生まれるからだ。それに諸悪が襲いかかり、人類を悩ませていて、いかなる改善も期待できない(ようにみえる)からだ。しかしわれわれがこの摂理に満足することは、きわめて大切なのである。この摂理がたとえ人間のための地上で辛苦の多い道程を定めていたとしてもである。しれはこうした艱難のうちでもつねに勇気を失わないでいるためであり、またこれらの悪を運命の責任に転換しないためでもある。これらのすべての悪の責任は人間だけにあり、人間がその唯一の原因なのである。われわれのみずからを改善すべく努め、諸悪に対抗するための工夫を怠ってはならないのである。」『人類の歴史の憶測的な起源』p97


http://www.amazon.co.jp/永遠平和のために-啓蒙とは何か-他3編-光文社古典新訳文庫-カント/dp/4334751083/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1407420684&sr=8-2&keywords=啓蒙とは何か


世界最終戦争という曲も思い出しました、読んでいて。


ヘイゼル・ヘンダーソンとかマータイさんも思い出した。行動する学者。