理性の公的使用と私的使用の話。
宗教Aと宗教B。
宗教A、共同体の宗教を否定することで、世界宗教、宗教B(具体的にはキリスト教や仏教など)が生まれた。
仏教の話はTさんが言われていることとほぼ重なっていた。
柄谷氏が読んでも同じ認識になる。
本を読むことも大事だけど、
現場に行く、体験するっていうのも何にも代え難いことだと思う。
見もしない、味わいもしないで、読みもしないで、ああだこうだいうのはよくない。
カントの考え方をふまえて、
いろいろなことを論じている。
理屈って、大事だと思う。
原発にしても安保法制の問題にしても正邪がわかってくる。
非社交的社交性の話
後期フロイトは、超自我を社会的な規範を内面化したものであるだけでなく、死の欲動(攻撃性)が自分の内に向かったものだと考えた。それと同様に、カントは、永久平和が、攻撃性の発露の結果として、それが内向化したときにもたらされるだろうと考えた、ということができます。
『倫理21』柄谷行人
前の考えを否定したわけではないのか。
「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」カント
このカントの考え方の延長に必然的に出てきたのがマルクスの思想だと言う。
コミュニズムは根本的に倫理的な問題であるとのこと。
共産党独裁による国有化経済がコミュニズムだと考えられているけれど、
これほど非マルクス的なものはないとのこと。
賃労働(労働力商品)の廃棄(これがコミュニズムの核心)→
→「自由で平等な生産者の連合」の拡大→国家の死滅
賃労働が自分の中で当たり前すぎて、うーん、国家の死滅、イメージが難しい…。
柄谷氏は、こういう関係のボトムアップではじめる実験的な取り組みをされていたと思う。どうなったのだろうか。
「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」「自由であれ」という倫理的義務のみからコミュニズムへの発展があるらしい。
賃労働は廃棄されないし、だいぶ違うけれど、サードウェーブの流れは、これに少し近いのかな。どうなんだろう。
『倫理21』は、
カントの「道徳形而上学の基礎づけ」みたいに事例がたくさんあって、読みやすかったです。
湯浅さんのための話も思い出した。
自由は自然的にはないのだ。
「自由であれ」と人が想定する時のみに自由が存在する。
あと苫野さんの教育論も思い出した。自由の相互承認の話。このことを深めるためにも、カントや『倫理21』は有益だと思う。