アクティブラーニングの定義にある協同、
これを絶対に押しつけられたら吐き気がする。分業の協同の中にあっても。だから協同を否定するわけではない。



主体性を尊重する学習のベースは個別化にある。



これで協同やらグループやらを絶対的に押しつけられたら、吐き気がする(僕は一斉もグループも否定しません)。



偉そうな連中が
一つの方法を押しつけるみたいに、
アクティブラーニングの協同を絶対的に押しつけてくることを恐れます。




そういうふうに僕は飲んでるけど、思う人だ。
実際そうだ。飲んでなくても同じだ。



グループで個を否定してしまったら、
それは全体主義とどう違うのだろうか?


たとえば、
グループ活動ではなくて、
個で活動して、ゆるやかに繋がっているほうがよい場面もあると思う。
体育や作文、図工なんかはそういう場面が多いかもしれない。


そういった時に
あのアクティブラーニングの目的から、グループ活動による協同など押しつけられるかもしれない。
そもそもその目的は妥当なのだろうか。



此の国って、上の人が例えば算数で練り上げが大切だと結論すると、それを下にいつも押しつけてくる人がいる。でも本当に算数について分かっている人は、算数の授業には教える場面が必要だということが分かっています。そういう場面の授業は研究授業にはなりにくいし、そういう授業を認めない人もいる。何でも問題解決授業ってわけです。