カント、デュルケム、ペスタロッチ、ヘルバルト、デューイ、牧口常三郎など、こういう人たちから学ぶと教育を考えるための基本的な哲学というのか、言葉というか、考え方というのか、どれもなのか知る。そうすると、現代の教育論で見られる新しい言葉に右往左往しないですみます。それが古典を学んでお得だと思うこと。例えばアクティブ・ラーニングと似た言葉で、動的教育というのを僕は80年以上前の本の見かけました。今のアクティブラーニングは3つの視点のから不断の改善だという。でも考え方のレベルで、どれほど動的教育などの当時の新教育から変わったのだろうか。どれほど進歩があるのだろうか。


学校の意義の一つは集中化にある。昔は歌をあの先生に習いに行こう。ラテン語をあの先生に習いに行こうとか、それぞれ自分でいろいろな場所に足を運んで教育を受けていた。でも学校という一つの場所に先生も教育に必要な設備なども集中させるようにした。当時の大学生は大学に行くことで、いろいろな学問を効率よく学ぶことができるようになった。


たまに学校は必要ないのではという話を見かけることがある。それでこういう歴史を知っていると(これはデュルケムの歴史の本で学んだこと)、いくらこれからパソコン上で学べるようなったとしても、学校の集中化の意義は、相対的に価値が低くなることはあっても、失われることはおそらくないだろうなと考えることができます。