「グローバルプラットフォームに魂を売り払ったクズ野郎の告白。」
この人、正直だな。理想と現実の行動のギャップがほとんどないように見える方もいるし、実際にほとんどない人もいると思う。
しかし、凡人はそうもいかず、僕も理想やロールモデルはあるものの、エゴイスティックな部分も強くて、行動がついていかずなんてこともある。
価値あるのか、ないのか、人格に価値を適用するから、人格を手段とするという発想になるけど、カントの道徳法則(人格を手段としてだけではなく、目的として扱えという命令)にあるように人格を手段としてだけ扱うことに問題があるだけなんだよな。
僕の身の回りを観察しても、僕が作ったものは、ドラムスティックみたいな箸だけで、ほとんど他人が作ったものだ。多くの人の生活は他人が作ったものに支えられている。ある意味、他人を手段としているわけだ。よく言えば、互いに間接的にだけど、分業しながら、支えあっているわけだ。
動画のテーマなどから書きながら、脱線していくのは、いつもの自分だけど(型で書く時もあるけど、普段は型もくそもなく、誤字脱字もあまり気にしない。気付いたら直すけど)、いつからか「人材」という言葉がなんか嫌いになってきて、「あいつは使えない」とか、そういう考えや発想につながっている言葉だと思って。この違和感を捨てちゃいけないと思う。この「人材」って言葉はさ、人の手段の部分をメインに抽出しているというか、人が目的であるということが抜け落ちているというか。「人材」だったら「人」っていう概念の方がいい。言葉狩りみたいなのは、どうかと思うけど、違和感や嫌悪感があるものは仕方がない。いや、考えてみる必要はあるかな。
そういえば、よくトルストイのことを思い出す。人生で5年間くらいベジタリアンだったけど(動物愛護と環境保全と色々な理由で)、それはトルストイだけではないけど、トルストイの影響もある。僕は、給食をきっかけに肉食に戻ったけど、そこにも実は、違和感が残っていて、トルストイのことをたまに思い出す。本当は、心の底では、トルストイのような考えを理想的だと思っているのかもしれない。それを見ないように抑圧している自分に気づくけど(そういう情報も見ないようにしている。見ている暇がない。グレーバーが言うように仕事に釘付けになって思考停止になっている部分があるのかもしれない。)、何度もトルストイの思想が蘇ってくる。このことに関しても、現在の自分は、自分の健康とか、周りとの調和とか、そう言ったものを優先している。
また脱線していくけど、国分さんが、「手段」と「価値」とか「目的」とか批判している論考あるみたいだから、最初の興味なかったけど、読んでみたくなってきたかもしれない。