大学時代から今も学んでいる敬愛する方の記事。僕には大事なよく考えるべきことです。
============================================「高み」って何?

宗教的典籍の言葉は、作られたとき、どのような意味を持っていたかをしることは、とても大事です。

たとえば、日蓮が使う「主師親」ということば。
あれは、確立期にあった封建道徳で、

世俗的権力者(ご恩と奉公の関係で結ばれた)、
世俗的権力者が任命した宗教的権威者、
そして、土地相続を媒介とした家父長

という、ごっつい権威的な存在だったわけです。

日蓮は、膨大な行数を通じて、それを脱構築していくわけです。

「一切衆生の尊敬(そんぎょう)すべきもの」として、
「主師親」がある。

果たして、それは「尊敬」すべきものなのか?

人は、そういう自省的な問いかけを、
何ヶ月も問いながら、
果たして、何が尊敬すべきものなのか、
を、根本的に定義し直す。

そうして、日蓮は「主師親」を否定したわけです。

「主師親」とあるからと言って、
「主師親」を説いたとするのは、
間違っています。

それで、「私は世間には見捨てられたぼろぼろの地位も名誉もまったくない、
存在だけど、人を救おうという誓いに生きてきた」
と言われるわけです。

たとえば、聖書を例にとります。

「マリアの子イエス」という表現は、
「聖母と神の子の神聖な関係」を表すなどと、
伝統的な解釈はなされるのですが、

もともとは違います。

不貞の女から生まれた子は、生涯、(当時、ユダヤ教の伝統であった)父の名ではなく、母の名を以て呼ばれる」ということ。

つまり、「マリアの子イエス」という表現は、
「不倫の父無し子イエス!」という、
生まれながらの差別的表現であったのです。

他にたとえば、
「神は高みより人間の世界を見わたされた」などと、
聖書にしょっちゅうでてくる「高み」(ヘブライ語で、ramah)は、当時どんな意味を持っていたか。

当時、金持ちや普通の市民は、低いところ(簡単にいえば、オアシス)に住んでいて、高いところは、ハンセン病の人、難民、町を追放になった罪人、ホームレスが住んでいたのです。


だから「高み」というのは、「立派な天国の御殿から」という意味ではなく
「ホームレスのいるところ、ハンセン病の人たちが追放されたところ、難民キャンプから」という意味なわけです。

立派な神様、立派なイエス様、立派な日蓮大聖人様ではないのです。

ぼろぼろの神様、ぼろぼろのイエス様、ぼろぼろの日蓮なのです。

だから、立派なのです。
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そうですそうです。

結果的には、脱構築ですね。

「主師親」については、その息苦しさをすごく感じていた
(まさに、文永7年8年の弾圧のとき、
日蓮を弾圧したり、裏切ったりする連中が、
「主師親大好き」な人たちですから)
ので、かなり分かりやすい脱構築です。

しかし、「習学すべき」については、
その息苦しさは、少し少ないと思います。
曲がりなりにも、思想の世界ですから。

もちろん、それがイデオロギーとして社会を形成してしまう。
そこについての、限界を感じ、

最終的に脱構築するわけです。
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もう一つのポイントは、
「主師親」が、エラい人の権利(俺を敬え)であるのに対して、

大聖人は、「私が果たすべき責務(大船とならん。柱とならん。眼目とならん)」を述べています。

主師親と大聖人は方向が逆です。
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