二つの考え

教育には、いろいろな方法や考えがあるけれど、
Tさんが言われるように二つの考えがあったとしたら、おそらく二つとも正しいと思う。
ただ深さに違いがある。そんなことを思いながら起床。



Tさん

二つの考えがあったとしたら、おそらく、二つとも正しい。
正解などは、ない。
ただ、それぞれの考えを、絶え間なく深めているか、浅いところで留まっているかの、違いがある。
だから、違いは、二つの考えの間であるのではなく、
それぞれの考えのなかにある。

 旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。それでゆくなら、子どもの生活はあまり問題にはならない。……(中略)……いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。
ジョン・デューイ著・宮川誠一訳『学校と社会』岩波文庫


デューイは「子どもが中心」よりの人だと思うけれど、「子どもが中心」よりの新教育の問題点を自覚しています。そのことについて『経験と教育』というデューイの思想が要約されているといわれる本に記される。この点について、デューイという人や思想の深さを表していると思います。



牧口常三郎も「子どもが中心」よりの人だと思います。ただ「学習経済」などの視点から、教育を批判(吟味)する視座をもち、芦田恵之助たちの「自由選題」(子どもが中心の教育)への対案となる理論と授業案を提案しました。こういう交差させるところから、何かのカウンターとして新しいことを提案するというのは、バラモン教に対する仏教やユダヤ教に対するキリスト教などの宗教史と似ているかもしれないと最近思いました。


牧口常三郎を関係から読み読み解いていくと、『経験から出発せよ』の経験はカントやペスタロッチの哲学から、『価値を目標とせよ』の価値もカント哲学から(ただこれはカント哲学から独自の価値論を考えたとも言われています)、『経済を原理とせよ』の経済の考え方は哲学者のマッハの影響があるだろうと考えられるという論文を読んだことを思い出した。現場での経験と人類の遺産を下敷きにしながら、己の思想を展開した牧口常三郎の鋭さ、深さ、明るさのことを思う。


高校生の時に牧口先生の「価値論」を読んだときは明るい部屋に入ったような気持ちになった。あの「価値論」はカントという人と思想に繋がっていたのだった。


斎藤正二先生は当時カント哲学を正確に理解した数少ない知識人の一人として牧口常三郎を評価していたと思う、記憶によると。



誤解かもしれないけれど、Tさんの言葉の言外にある真意がわかってしまったかもしれない。