創価教育学体系Ⅳ

すごい実践者がいてもその技術(暗黙知)は言語化されず、その方が亡くなると共に、その技術もなくなってしまう。こういうことがたくさん起きているという牧口先生の問題意識だったみたい。

問題の解答の一つとしてパタンランゲージを思い出しました。

脳科学などの生物学や心理学などから教育法則を演繹するのではなくて、
教育事実の中でも特に技術と制度を対象としたいということ。

今は脳科学は分からないけど、認知科学などは演繹してもいいくらいに、研究が進んでいるとは思う。ただしその結論はけっこうペスタロッチやヘルバルトなどと重なっていることがあるのに、最近驚きました。それだけじゃなくて、もちろん最新の科学によって、あたらしく明らかになったこともある。

じゃあ牧口先生の考える教育技術とは何なのか。一つは暗黙知のイメージ。
あとは、なんだろう。

欧陽脩の言葉[編集]
三上 - 良い考えの生まれやすい状況のこと。馬上、枕上、厠上。それぞれ「乗り物に乗っている時」、「布団で寝ている時」、「便所の中」[6]。
三多 - 文章上達の秘訣。看多、做多、商量多。それぞれ「多くの本を読むこと」、「多く文を作ること」、「多く工夫し推敲すること」[7]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/欧陽脩
p238

 欧陽修の「多読、多作、多商量」という文章法の原則の如きは、それは或る程度の文明国民にはどこでも考え出される法則で、別段の思慮を要する程ののものではない。何となれば少よりは多が良いという位の事は誰でも考え出し得る殆ど自明の理に過ぎないものであるからである。然らば如何なるなるものを文化的教育法というか。
 目的観念が明確に意識され、これに応ずる達成手段が適確に考案され、目的と手段との連絡統一の秩序的観念系列が整然と建立され、一定の資格を備えたものがその事に当たるならば、誰にでも容易に仕事が出来る様な方案を客観的に立て得るものにして、初めて文化的ということが出来る。

それほど自明の理であるなら、その法則に合った教育の計画になっていたのか、設計になっていたのか、環境になっていたのか、または今はどうなのかと問いたいです。疑う余地がなさそうで、牧口先生いわく「平凡な真理」らしいけど、だからこそ大事だと思うけどなあ…。

まあ、少より多なんて自明の理だろうっていう話は、分かるけれど…。それだけではということか。

だいたいリチャードアーリントンも欧陽修と同じこと言っている。1000年前くらいの人と今の研究者の結論が変わらない。

牧口先生が発明した技術に骨書きやかご書きがある。これはお手本の字を鉛筆などで写すというものだったと思う。これは誰でも確かに真似できる。今はしないと思うけれど。

http://www.kansai.soka.ed.jp/syougak/life/syosya.html

僕のいる地域の代表的な書写の授業に牧口先生の骨書きなどの技術がミックスされた感じ。なるほどー。しかも下のほうまで読むとめっちゃ結果が出てる。すげー。

p277で明確なダルトンプラン批判。

アトウェルの学校がうまくいっている一因が、ジャンルスタディなどの反ライティングワークショップ的な要素にあるだろうということを思い出す。僕はそれがおもしろいと思う。

この『創価教育学体系Ⅳ』にある「教育技術鑑賞論」めちゃくちゃおもしろいです。

p289にドルトンプランの再評価についても書いてある。

苫野さんと似ている。一つの哲学から再編成することによって、再評価されるとういかな。

ゆっくりまた再読したい。



「少よりは多」ということを考えると、変わらない、良い、悪いと三択あって、読むことや書くことの領域で「少よりは多」のほうが悪いとか少でも多でも変わらないという状況を考えるのが難しいです。

だから読むことでも書くことの領域でも、量を確保する工夫をしつつ、その他にも工夫していくこと大事だと思いました、とても当たり前の結論のようにも思うのですが。