創価教育学体系Ⅳ

ドルトンプラン批判

 斯様な標準を立て、之に照らして今の教育実際界を見渡すと、遺憾ながら大部分は第一、第二の階級と断ぜざるを得ず、その最も優秀なりといわれるものでも、失礼ながら第四階級を出でないという悲しまざるを得ぬ。なるほどダルトン・プランなどの新方法を誇るものがあるに相違あるまい。けれども第四
階級以下に於ける教師自身の、計画も立てずして、一足飛びに第五段階以上の活動を児童自力に強いんとするにある。上層建築から初めて土台の建築を最後にすると選ぶ所なく、結局は被教育者の自然的所作を傍観して注意を加え、終わって成績品を直してやるという原始的自然的指導と揆を一にするに過ぎないであろうからである。盲目的の計画的活動と無計画明目的の活動とが、結果に於て相等しく低い能率を齎すのみゆえ、全体に亘って改革されなければならぬことは屢々繰り返した所である。而してその攻究すべき計画とても、技術者自身の活躍を大衆に鑑賞させしめて、直ちに喝采を博線せんとする一般芸術などと異なって、教育技術は被教育者の蔭にかくれて、其れに創価能力の付与するを謀り、間接に社会に貢献するものたることを理解し、なるべき表面的の教授を控え、被教育者の自発的活動を指導なるための手段として研究することを忘れてはならぬ。

創価教育学体系Ⅳ』p277


書くことのプロセスをまるごと体験させるのは負荷が大きいというライティング・ワークショプに対する批判と似ている。
もし自由教育よりの教育実践をやるなら、それに平行して意図的な教育が必要だと思う。
第四段階
「被教育者をして明目的、計画的に活動せしめる合理的活動に導く教師の合理的活動」p274




意図的な自由教育。