言葉の意味を限定していかないと組織は混乱するだろう。


しかし例えば「団結」という言葉がある。「団結」にしても「チーム」にしても一歩間違えれば
全体主義に陥ってしまう。間違った方向に限定されていけば、不幸になる。


「異体同心」「同体同心」という言葉がある。全体主義は、「同体同心」。「異体同心」の考え方が背景に徹底されてば、現れる「団結」の姿は違ってくる。それでも、「異体同心」も油断すればあっという間に全体主義へと陥ってしまう。


僕たちは、みんなそれぞれ個性があって桜梅桃李である。個性はあるが通性的な部分もある。それぞれの人がことなる体で、場所も異なるところにいるかもしれない。違った思いや価値観も政治観もある。それでも「同心」である。何に対して同心かは、その人たちに夜だろうけれど。そんな「異体同心」のチームもある。バラバラでも、同じところを目指していれば、「団結」もできるし、「チーム」としても成り立つだろう。


どこまで揃えればいいのだろうか。正しいは答えはないと思うけれど(同心のところじゃないか。何に対して同心なのかが、それがその団体の魂にもなるし、学習指導要領などのスタンダードや規律にもなる。理論や哲学にもなる。でも僕たちはみんなバラバラで一緒。バラバラも大切にしなければおかしなことになってしまう)、揃える部分がいきすぎれば全体主義に陥りうだろうと考えます。バラバラすぎれば崩壊します。


二項対立になっている。バラバラと一緒。どちらも大事です。


ある組織が全体主義化しているときに、例えば本来、目指してきた「異体同心」があったとすれば、その言葉に戻って、今ある姿を諌める。そんなことも必要かもしれない。「全体」は「部分」に対応する言葉です。言葉を精査すれば、もう一方の意味が出てきます。


「チーム」だからと言って、バラバラな部分を軽視して全体主義的になってしまうこともある。
また通性無視の単なるバラバラで、めちゃくちゃ、崩壊みたいなことになってしまうこともある。


教育の世界でも、個性化(バラバラ)と通性的な部分を求めていくことは、どちらもある、大きな潮流ですが、例えば通性的なところを重視する一斉授業を大事にする人たちが自由教育を放置教育だと言ってバカにする。確かに放置教育もあったのかもしれないですが、本来の自由教育って、どれも理念があって、場作りがあって、問いがあって、インストラクションがあって、放置している姿とはかけ離れている。一方、自由教育の人たちが、通性無視で、一斉授業のデメリットだけ指摘して(そのときに描いているのは、一斉授業の中でももっとも悪いものです。そこで指摘されるデメリットの多くを実は、より良い一斉授業では、全部ではないかもしれないかなり克服していると思う。それは自由教育にも言える。自由教育を非難している様々な点も、それは質の悪い自由教育をイメージして出てくることだと思う。どちらも構造的な欠陥があるので、そのデメリットを完全に克服することは不可能だと思うけど。一つの方向を重視するということは、もう一方のいくらかを捨てるということです。境界のバランスは学校などの集団としても個人としても様々なんだと見て思います。)、バカにする。そんな姿を見かけたことがある。その根底にあるのは、どちらも必要な考え方なのにです。人の普遍的な思考法に関わってくることです。