街場の教育論

街場の教育論

街場の教育論

メモ。

「先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としていちばんよい感化をもたらす。そういうものです。
 きれいに理屈が通っている。すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。成熟は葛藤を通して果たされるからです。」114項

学びの基本
「わからないことがあれば、わかっていそうな人に訊く
 それだけです。」120項

「実は同一人物が言っていることである以上、深いレベルで見れば、「同じことを言い換えているだけ」だということがわかる。」131項

あらゆる教えの基本
「すべての重要な教えは「そのオリジナルがもう消失したが、それを聞き取った記憶は残っているので、それを祖述する」というかたちをとります。」144項

「教師が教壇から伝えなくてはいけないことは、ただ一つです。
「私には師がいます。私がここでみなさんに伝えることは、私が師から伝えていただいたことの一部分にすぎません。師は私がいま蔵している知識の何倍、何十倍もの知識を蔵していました。私はそこから私が貧しい器で掬い取ったわずかばかりの知識をみなさんに伝えるためにここにいるのです」
 これで十分なのです。自分の師に対する畏敬の念、それに比べたときの自分の卑小さ、それを聴き手に理解させれば、それだけでもう教育は十分に機能する。」152項

「ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。」156項

「師が教壇で言う言葉は古今東西どこでも同じです。師は「古典を学べ」と言う。それだけです。」157項

「起源に還り、古典を学ぶことを「必要である」と思ってさえいれば、その人は師として機能し始める」157項

「教師の仕事は「学び」を起動させること」158項
そのためには
「教師自身が、「外部の知」に対する烈しい欲望に現にやかれていることが必要である」

「ひとりひとりが自分に期待されている仕事の何倍、何十倍ものオーバー・アチーブをしたときにだけ、集団的なブレークスルーは達成される。そして、オーバー・アチーブというのは絶対にトップ・ダウンでは実現できないものなんです。」182項

「オーバー・アチーブというのは上司が「やれ」と命令することのできるものではなく、「やるしかない」という士気が自発的に高まることでしか達成されないのです」183項

「現に親たちや周囲の大人たちやメディアが喧伝する「世俗の価値観」とは違う文法で叙され、違う度量衡で考量される「叡智の境位」が存在するということを信じさせること、それが教育の第一義的な目的だと私は信じています。」184項

面接の合格基準について
「この人といっしょに仕事をしたときに、楽しく仕事ができるかどうか、それを判定基準にしているから」209項

・面接のコツは、自分をよくみせようとしないで、その場にいる人たちが気分をよくなるようにふるまうことです。

「子どもの言語状況は「言葉があまって思いが足りない」というかたちで構造化されるべきでしょう。それゆえ、美しく、響きがよく、ロジカルな「他者の言葉」に集中豪雨的にさらされるという経験が国語教育の中心であるべきである」244項
「自分の手持ちの身体感覚で推し量ることができないけれど、言葉だけは知っている。そういう言語状態こそが教育的であろうと私は思います。」245項

ルソーとかペスタロッチの反対の考えになるのかな。
これも一理ありますね。
国語教育について語られたところで、おもしろいです。
私は活字の海をたくさん泳ぐ経験が大切だと思います。
やはり、国語の教科書では活字の量が少なすぎます。