ソクラテスの思い出2

ソークラテースの思い出 (1953年) (岩波文庫)

ソークラテースの思い出 (1953年) (岩波文庫)

この本はソクラテスに直接縁があった人のソクラテスのお話です。
この本が、自制の力について深く考える機会になってよかったです。

ソクラテスの話を以下引用します。
212項から216項まで

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 彼はまた弟子たちを実際家としても立派な人物にしたことを、私はここで述べておこうと思う。何かひとかどのことを成し遂げようとしている人には、自制の力の存することが良いことであるとの信念から、まず第一に、自分がなんびとよりも自己鍛錬につとめているのを弟子たちにはっきり見せ、次に談話によって、何よりも克己の修養につとめるように、弟子たちに説いてきかせたのである。されば、つねに彼は、美徳の修養に助けとなる事物のことを、自らも念頭より離さず、また弟子たちにもすべての者に、しじゅうこれを思い起させていた。あるとき、彼がエウテュデーモスと自制について次のように論じたのを、私は知っている。
 「言って見なさい、エウテュデーモス、君は自由が個人のためにも国家のためにも、立派なそして荘厳な宝であると思うか。」
 「無上の壮麗な宝と考えます。」
 「それでは、肉体の快楽に支配され、そのために最善のことが行えない人間を、君は自由の人と考えるか。」
 「決して考えません。」
 「たぶんそれは、最善のことを行なうことが自由と見えるからであり、それゆえにまた、これを行なうのを妨害するもののあることが束縛であると君は考えるからだね。」
 「まったくそのとおりです。」
 「まったく君には、無自制の人間がすなわち束縛の奴隷と、思えるのだね。」
 「そうです、そう思えます。」
 「では無自制な人間は、もっとも立派なことを行なうのをさまたげられるだけと思うか、それともまた、もっとも卑劣なことをもせざるを得なくなると思うか。」
 「私の考えでは、それがさまたげられるのに劣らず、これもせざるを得なくなると思います。」
 「最良のことを妨害し、最悪のことを強いる主人というものは、どんな種類の主人と君は考えるか。」
 「世にも最悪の主人です。もちろん。」
 「そしていかなる奴隷生活を君は最悪と思うか。」
 「それは、最悪の主人に仕えるもののそれでしょう。」
 「すると、無自制な人々は最悪の奴隷生活をしているのだね。」
 「そうだと思います。」
 「智という最大の善を、無自制は人間の頭から追いのけ、人々をして智のまさに逆におとしいれると君は思わないか。または、人々を快楽に誘って、有益な事柄に心をむけ、これを学び覚えるのをさまたげ、そしてしばしば善悪の識別に頭を混乱させ、善いことよりも悪いことをえらぶようにさせると思わないか。」 
 「そうなってゆきます。」
 「しからば、エウテュデーモス、思慮に縁なきこと無自制な人間に若くものあると言えようか。思うに、思慮のなすところと無自制のなすところとは、まさに正反対であるからだ。」
 「これもご意見に賛成です。」
 「肝要な仕事にはげむのを、無自制よりももっとさまたげるものがあると思うか。」  
 「もちろん、思いません。」
 「有益なものを捨てて有害なものをえばらせ、これを大切にして彼をおろそかにするようにすすめ、思慮の教えるところと正反対のことを強いるものより、もっと人間のために悪いものがあると思うか。
 「ありません。」
 「自制は無自制と反対の結果を人間に生ぜしめるとは思わないか。」
 「まったくそう思います。」
 「しからば、この正反対の結果を及ばす根源は、最大の善と言ってよくはないか。」
 「もちろんいいでしょう。」
 「すると、エウテュデーモス、自制は人間最大の善であると言えそうだね。」
 「言えそうです、ソークラテース。」
 「エウテュデーモス、君はあれを考えて見たことがあるか。」
 「なんですか。」
 「すなわち、快楽が無自制の唯一無二の目標と考えられているが、無自制というものは決して人間をそこへ連れて行く力はなく、かえって自制は何ものにもまさって人を楽しみにみちびくことができるという事実だ。」
 「どうしてですか。」 
 「それはこうだ。無自制は飢えも渇きも肉欲も眠気も、これをがまんすることを許さない、ところがこれができてこそうまく食い、うまく飲み、性愛も心地よく、休息も睡眠もはじめて楽しいのであり、よく待ちよくがまんしてこそ、それらにひそむかぎりの最大の快味が生まれるのであって、無自制はもっとも本然の、もっとも継続的な快楽を、真正に楽しむことをさまたげるのである。ただ自制のみが、よく上述のことをがまんせしめて、ひとり上述のことにおいて言うに足る快味を楽しませるのだ。」
 「いかにも言われるとおりです。」
 「その上、また実に、何か美にして善なることを学び、そして、己の身体を見事に修め、自らの家政を立派にととのえ、友人および国家のために有益な人物となり、敵を破るなど、ただに助けとなるのみか、そこから最大の愉快が生れて来るところのものの、いずれかにはげむ楽しみは、自制ある人々がこれらのことの実行によって味わうのであるが、無自制な人はこれにあずかることができない。なぜといって、目前の快楽の追及に心を奪われて、こうしたことを実行する力のまるで欠けている人間より、もっとこれらのことに縁のない人間がどこにあると言えようか。」
 するとエウテュデーモスは言った、
 「ソークラテース、あなたがおっしゃるのは、肉体の快楽に負ける人間にはいかなる美徳も全然縁がないということのように思います。」
 「そうではないか、エウテュデーモス、無自制な人間はもっとも無智な動物とどこがちがうか。もっとも大切なことに心をそそがず、あらゆる手段を用いてもっとも愉快なことばかりしようとしている人間が、どうしてもっとも愚鈍な家畜と異なるか。ただ己れを制し得る人々のみが、物事のうちのもっとも緊要な物に心をそそぎ、行為につき言葉について種類にしたがってこれをより別け(deialegontas)を避けることができるのだ。」
 そしてかようにして人々は、至善にして至福の人間となり、かつ討論(dialegesthai)の最大の達者になると彼は言った。彼の言うところによれば「討論」という言葉は、寄り集まって物事を種類にしたがって「より別けつつ」、ともに事を議することから出ているのであった。さればわれわれはすすんでこれに習熟するように日頃から大いに心掛け、大いにこれにはげむことが大切である、なんとなれば、こうすることによって人々はもっとも優秀な、万人の頭領たる、討論に秀でた人物となるからであると言った。

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