読書 孫市

尻啖え孫市 新装版(上) (角川文庫)

尻啖え孫市 新装版(上) (角川文庫)

孫市が魅力的でとてもおもしろい小説でした。
前に読んでいた斎藤道三の話から、半分以上はひたすら謀略の嵐で、
関ヶ原あたりから家康の謀略がより暗い感じで、
それに翻弄される豊臣家にため息がでそうでした(とてもおもしろいお話でしたが)。
その後に、
この話を読んだら、なんだかほっとしました。
孫市は謀略の人はでないし、孫市も秀吉も明るい。
特に孫市は人がいいと思いました。利害ではない美意識を貫ける人はいいですね。司馬遼太郎はそういったものがないと小説にはならないと言っていました。それは南北朝時代を書かない理由らしいです。ほぼ利害だけの世界で楠正成以外はそういった美意識に生きた人はいなかったらしいです。


加賀の親鸞の宗派の人たちとの絡みがおもしろかった。
親鸞の思想と、その後の人たちの違いがわかりました。
周り人たちがほとんどが阿弥陀仏の信仰をしているのに、
流されない孫市はすごいなあと思いました。


親鸞の宗教ではじめて世界観というものに触れた加賀の人たちの感動・驚きという話は共感しました。
司馬遼太郎は現代の人には親鸞の思想のような世界観には食傷気味だと書いてありましたが、世界観といえるようなことは学校では教えてくれなかったし、19歳くらいのときにはじめて世界観といえる法華経の生命観に触れて僕には衝撃的でした。神社とかで祈るとかはあるのかもしれないけど、それは世界観ではないです。自分の家の宗教は仏教ですが、祈れといわれることはありましたが世界観は伝わってこなかったです。自分で勉強してはじめて世界観に触れたと思います。高校生のときに「カラマーゾフの兄弟」を読んで、はじめて宗教の精神に触れてびっくりした。アリョーシャや長老みたいな人はまわりにはいなかったですし。それでも、司馬遼太郎の孫市の話のみたいに親鸞の世界観はこうだとは説明がたしかなかったので、そこからキリスト教の世界観といえるようなものは読み取れなかったです。いろいろ宗教や西洋の哲学者の世界観を齧ると共通点があって、ほとんど同じに思えるのですが、細かい違いから大きな違いまでいろいろあると思います。


親鸞の思想は厭世的で、
法華経などと比べると、似ているようで全然違うと思いました(共通点はありますが)。万物の根源を説明する点では同じですが、何でこんなに違くなるのか不思議です。親鸞キリスト教とも似ているけど、違う感じがします。キリスト教だと山上の垂訓で、信じること以外の心のあり方(例えば実際に行動しなくても、心の中で罪を犯せば、それだけで罪を犯したことになる)について強調しているようですし、天台や日蓮なども心の変革を重要視してます。天台や日蓮は現世安穏と言われるように現世を軽んじてはいないです。キリスト教も天国に救いを求めても、親鸞ほどに厭世的な感じがしないです。親鸞が信じる信じない以外に自制心など心の重要性について語ったという話を聴いたことがないです。親鸞を読んでみないことにはわからないですが。いろいろ本にさらっと出てくる話で、親鸞絶対他力と悪人でも救われるイメージばかりがあります。ちゃんと勉強したらそれだけじゃないんだろうと思う。大学時代の自分の思想史の勉強は中途半端に終わったと思います。でも自分が世界を解釈したり、直面している問題を考えるにはある程度納得できるだけ学んだので、それに満足して、それ以上追求する意欲がなくってしまったんだと思います。どんどん学んだ思想を忘れていきます。また学ぶ意欲が湧いてこないです。それよりも仕事のことが心配です。自分としては、現代科学と整合性があり、世界を解釈して納得するのによかった思想は、基本的に日蓮法華経解釈です。あとスピノザスピノザから大きな影響を受けているゲーテスピノザの世界観を詩で表現していると思います)とキルケゴールです。スピノザも中途半端にしか勉強していないですが、たしか自由がないと考えます。自由に選択しているように思えてもそれは錯覚で、意識できないほどに数限りなくある原因に縛られて一切自由はないと考える思想だったと記憶しています(こういう考えはたしかキリスト教のある宗派にもあったと思います。最初から地獄行きか天国行きか決まっていて、信者は天国にいける人ならするはずの現世の行動や姿を演じて天国行きを納得、確認するみたいです。)。そこが日蓮とは違うところだと思います。でも世界観はとても似ていると思います。絶対者・神(創造者)と被創造物を分けないで一つだという世界観です。スピノザは一つの存在に無限の属性があり、あらゆる現象は一つの存在(神)の変化だと考えるのだったと思います。これは南無妙法蓮華経がすべての現象の根源で、すべての現象は南無妙法蓮華経が変化したものであると考える日蓮思想と一致していると思います。あとスピノザは神秘性とか呪術性が欠片もなかったように記憶しています。法華経は十界論が独特だと思います。親鸞だとすべての根源が阿弥陀仏阿弥陀仏に生かされてると司馬遼太郎の小説書いてありました。阿弥陀仏的な存在と自分などのあらゆる現象が不二(バラバラでいっしょ、二にして二ならず)とするところが日蓮親鸞との違いだと思います。あらゆる現象の根源を説くところは同じです。日蓮系の人たちは自分自身は南無妙法蓮華経だと言ったりします。親鸞の信仰者が自分自身は阿弥陀仏と言ったとかは聴いたことないですし、言わないだろうと思います。阿弥陀仏に生かされていて、キリスト教と同じであらゆる現象と阿弥陀仏キリスト教だと神)はただ別々で一つではないという思想なんだと恐らく思います。神や阿弥陀仏という名前の存在と人間などの現象に断絶がたぶんある。凡夫がそのまま成仏できる(即身成仏)というのが法華経思想なのでずいぶん違うと思います。




法則は波動だと先輩が歌っていました。たしか物質は粒子と波の性質を両方持っているらしいです。宇宙は全部振動していて、すべてがつながっていて、死ぬと肉体はバラバラに分解されて自分の死んだら終わりではない何かは宇宙の波に溶け込むと何の根拠もないけど思います。宇宙は海みたいな感じがします。自分は宇宙の欠片だと思う。


当時の加賀の人たちが宗教に惹かれる気持ちはわかるし(その惹かれる要素は永遠とか絶対とか無限とか。僕も世界は有限なだけではない思います。キルゲゴールなどがいように、自分が生きている世界は無限性と有限性を両方備えているものだと信じています。)、そういったことに反発する孫市の気持ちもわかると思いました。


宗教の場合、宗教社会学の話を読んだときに書いてあったのですが、特定の宗教が人間の行動にどのような影響を与えるかという視点が大事だと僕も思います。


司馬遼太郎親鸞好きそうです。
友だちがおもしろい言っていたし、
吉川英二の「親鸞」を読みたくなりました。


最後のほうで高虎が出てきて、出た!と思いました。
高虎みたいな働きをする人は現代にも見かけます。


金ヶ城退却は何度も描かれいますが、想像するとぶるっとくるし読むたびに何か感動します。その当時の家康は律義者だったらしい。他の小説だと家康が退却戦に残ったと描かれています。


司馬遼太郎は小説を書くために資料を数千万円も買ったらしいです。トラックで神保町の古本屋に乗り込んで大量に買っていったとか。ある作家が司馬遼太郎と同じテーマを本を書こうと資料を神保町に買いに行ったら、司馬遼太郎が買った後で全然なかったそうです。それだけの努力で創った物語。やはりそれだけの価値があると思いました。


日蓮法然とその弟子をたくさん批判したけど、親鸞を名指しで批判してないらしい。おそらく日蓮親鸞を知らなかっただろうということらしいです。でも、法然親鸞の違いが不勉強でよくわかりませんが日蓮が知っていたら当然批判していたと思います。


ダイバダッタ品という章が法華経にはあって、親鸞と同じで悪人の救いが描かれています。ここ一年以内に少し勉強しなおしたので、たいぶ覚えているみたいです。悪人成仏、女人成仏、二乗成仏、十如是、十界互具、一念三千など。すべての人に仏性が備わっていて、凡夫のままに成仏できるという思想。母親のお腹の中にいたときから聞いていたせいかもしれませんが、ナンミョウホウレンゲキョウ(南無妙法蓮華経)という音が好きです。仏界(ブッカイ)という音もいいと思います。響きがいいですね。強そうです。念仏は日蓮の文章たしか哀音と表現されていて、それのせいか念仏(南無阿弥陀仏)の音は苦手です。念仏を唱えるときはナンマイダアってなるんだったと思います。法華経とか日蓮をめちゃくちゃに解釈して信じている軍人がかつていて、ナンミョウホウレンゲキョウと叫びながら戦争をしたらしいです。「国盗り物語」を読むと斎藤道三法華経信者だったらしい。法華経は両極端の人材を生んだらしい。変な方向に行く人、例えば前に日蓮の解釈に関する研究を読んだのですが、田中チガクとかその一派とか日蓮を間違った解釈をしています。たぶん自分の都合のいいように解釈して利用したのだと思います。迷惑な人たちです。イスラム教のジハードという言葉はたしか大ジハードと小ジハードとあって、自分の内面の制御に関することをたしか大ジハードといい最上のものとするらしいです。これもたぶん変な方向に行く人たちは都合のいいめちゃくちゃな解釈をしているのだろうと思います。


ジハードについてはウィキにもありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89
聖書も大事にするのがイスラム教なので、内なる心を大切にしてると思います。
もともと戦争の意味はなかったけど、後の教団のえらい人が意味を加えたんだと思います。真面目なイスラム信者の人はコーランに帰れとたしか言っていました。孫市のときの親鸞系の教団と同じです。信長との戦争で極楽浄土にいけることは間違いないとか後世の人が都合のいいように新しい解釈をしたり、思想(考え)を加えたりするようです。宗祖に帰らないとダメだと思いました。もともとの宗祖の思想を捻じ曲げる宗教利用の連中がたくさんいるようです。


さらに記憶を手繰り寄せて総合すると、
いろいろな時代と場所に
インチキな宗教家や政治家や作家など出現するみたいです。
・もともとの宗教や憲法などの思想や文章を(たぶんわざと)捻じ曲げた解釈を宣伝して人々を騙して利用するインチキ詐欺師たち。
・もともとないもの(考え・伝統など)をもともとあったかのように宣伝して人々を騙して利用するインチキ詐欺師たち。


ジハードはもともとは「ある目標をめざした奮闘、努力」意味したらしい。それで「神ジハードという言葉がコーランで「異教徒との戦い」という意味でも使われていたらしいけど、これも大ジハードといわれるものや、コーランのほかの考えや、聖書などとの関係から解釈しないと、真意はわからないんじゃないかと思う。「異教徒との戦い」がすぐに暴力を手段とした侵略という解釈にはならないと思う。もともとの宗祖の目的から考えれば暴力を手段とする侵略という解釈はできないのではないかと思います。「戦い」といっても意味が文脈から決まります。


「信徒の者よ、アッラー(アラー)と使徒と、使徒に下された聖典と、それ以前に下された聖典とを信仰せよ」(『コーラン岩波文庫
それ以前の聖典とは、新約聖書旧約聖書をたしか指します。

やはり聖書の言葉との関係性から「異教徒の戦い」を解釈しないと真意はわからないと思います。聖書の「右の頬を打たれれば、左も向けなさい」、「汝の敵を愛せよ」から考えて、「異教徒の戦い」を聖戦として暴力を肯定する解釈はできないと思う。やはり宗祖の真意から遠い捻じ曲げた解釈をする人々がイスラムの世界にもいるんだと思います。


「(イスラムには)恩寵の仲介をこととするただ一人の聖職者もいないばかりか、教義上の師父、教皇の権威、教義の裁定を行う宗教会議などの存在しない」(『イスラーム哲学史アンリ・コルバン
イスラム神と人との間に立つ聖職者がいないみたいです。