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コルの「子どもの学校論」―デンマークのオルタナティヴ教育の創始者

コルの「子どもの学校論」―デンマークのオルタナティヴ教育の創始者

読み始めました。解説はおもしろくなかったけど、これからコルが残した講演録と『子どもの学校論』という論文を読みます。前に読んだ話の記憶によると、たしかコルは僕と同じ代用教員の立場で、校長か学校と対立して、職場をやめさせられたということだったと思う。

「それでもおまえは、子どもたちが暗記せよとされていわれているものを彼らに話ができるはずだ。おまえは、おとぎ話を語るように、子どもたちにそれを語ればいいのだ!」60項


「聞いて。アブラハム。あなたは息子を犠牲にすることに不安はもたなくてもいいよ。主はあなたに、息子を家といっしょにまた与えるから。僕は知っているよ。だって、自分で先まで読んだからね。」62項

物語を語ると大人にはできないが、子どもは正確にリピートできるという話のところ。アブラハムの話を学校で聞いた若者は、その続きを家で本をとってさらに読んだということです。


少し読んでみて、コルはがんこな人だと思った。がんこを直したほうがいいと前の副校長に自分が言われたことを思い出しました。


キリスト教の精神とデンマークの精神を目覚めさせ、神の愛とデンマークの幸福を民衆に信じてもらえるようにすること」77項

これが目的か。デンマークの精神ってなんだ?


「自分の問題については、私はいつも頑固でした」84項
自分で頑固って言ってる。グルントヴィに会ったらいきなり対立。おもしろい。


「しかし、人が何かよいことをしようとするときは、それを決心するのはいつでも難しいことです。奇妙なことに、人はバカなことをするときにはすぐにそれをするのに対して、何かよいことをしようというときは変に慎重になるものです。」88項


本当にそうだと思う。


「私が十八歳のとき、神と隣人を愛すること学びました。そのとき、私の時間と力を、隣人を手助けするために使おうと決心できたことはとても嬉しかったのです。そして、学校が人々に対して神と隣人と祖国を愛することを教えること、それが私の本来したいことなのです」89項


十八歳、十九歳は頃は目覚めのときなのかなと思います。



『子どもの学校論』
「物語を語るという方法」97項
子どもの頃に語られた物語で特に印象に残っているは『蜘蛛の糸』です。素朴に自分だけのことを考えるのはよくないんだと思ったという記憶が正しいかわからないけど、たしかそう思ったと思います。


「しかし、私の意見と経験によれば、聖書の歴史、祖国の歴史、あるいはそのほか人間を宗教的組織および市民社会の生き生きとした成員にするべき教育ならすべて、物語を使えば一番たしかに、一番簡単にその目的を果すことができる。
 それゆえ、結論としては、古い民話、物語、そして伝説あるいは歴史の話がその本来あるべきところに再び置かれなければならないということである。」99項


「しかし、彼らの人生には、そえまで苦労して手に入れた有用な知識が残ることはない。残っているのは、この授業の名前のもとになされるすべてのことを嫌悪することだけであろう。」100項
これは教理問答法という暗記中心の教育についての話。知識や学びを得る方法を身につけることが基礎として一番大事だと思う。読書や体験学習サイクルなど。


「聖書の物語を口頭で語ることは、小さな子どもたちにもっとも有効で、それが彼らが一番喜ぶ宗教教育である」101項


「読むことを重要視するという迷信は、私たちのなかにある堕落の大部分を占める『悪』である。もし、読むことが十分にできるのであれば、いったい何のために学校の教員が必要なのか?教員に支払う賃金と同じだけのお金で、読みを学ぶための本をすべて買うことができるではないか。何かを読むということはもっと成熟した年齢に属することであるから、それだけに口頭の授業でそれまでの段階が準備されなければならない。よって、口頭での授業が欠けれていれば読む楽しみもまた大きく欠けることになる。」112項


特定の宗教とか特定の民族の精神だとかそういう特殊なものではなくて、もっと普遍的なものを身につけるために物語は有効だと思う。


「十二歳から十三歳になっていない農民の子どもたちだとまだそれはできないので、その年齢になるまでは、すべての授業が口頭でなされなければならない。口頭での授業が生き生きと上手になされるならば、子どもたちは自分の楽しみのために読むだろう。しかし、口うるさくこれを要求してはならない。子どもたちは、何をどのくらい読むかについて自由をもたなければならないからである。」118項

今の小学校4年生も2年生も何の問題もなく一人読みが出来ています。読みを教えるタイミングについてはちょっとコルは違う立場だと思いました。でももっと口頭での詠み聞かせをふやしていきたいなと思いました。一学期は少なかったと思いました。主に作家の時間のミニレッスンで読んだくらいでした。


「私たちは、デンマークの子どもがみな読むことができるようにした。しかし、それを役立てることのできる者はごくわずかである。というのも、精神が眠ったままで寝ている人間であれば、いい道具をたくさんもっていても使うのは少しだからである」119項


これはコルが繰りかえり述べていること。どうやって覚醒させるか。そんなことが公教育でできるのか。



「口頭での言葉が、耳を通じてという自然な方法で理解できないことであれば、人為的な文字によってはいっそう理解できないと私は思うし、その確信は不当ではないと思うのである。
 それゆえいまや、文字を通じて子どもに働きかけるために文字の道を切り開くのに七年かける代わりに、人は『耳を通して口から』という、自然に示されてすでに可能な道を進もうとするのである。このほうが、よりたしかに目標に到達するだろうことは明白である。『より早く』というのは、道がすでにつくられているからであり、『よりたしかに』というのは、それは自然なものだからである」123項
小学校の英語教育を思い出した。耳から学ぶほうが自然。



学校の中心課題すなわち「精神と心の改善」122項

「簡潔に私の提案をいえば、学校は読み書きとは最小レベルでかかわるだけでよい。学校には、それよりもずっと大事なことがある。すなわち、子どもたちの精神の能力を発展させることであり、口頭による授業がもっともたやすく、もっとも確実にそれを可能にするのである。」124項
考えさせられます。


「子どもたちを教育する際に重要な基本原則は、形式よりも内容、外面よりも内面を彼らがえるようにすべきだということである。つまり、書くことを学ぶ前に何か書くべき内容をもたねばならず、読むことを学ぶ前に知りたいという渇望を感じなければならないのである。それは、人が現実の表面だけ、目的のための手段だけ、そして事物の〔本質ではなく〕現象だけを大事にすることがないようにするために必要なことである。
 しかし、こういう本末転倒の事態が学校で生じているということは一定の事実が示している。ある子どもにキリスト教を知っているかどうか尋ねてみると、その子はそれを暗記したので意のままに使えると答えるだろう。そこで、その子あるいはあの子がどの程度キリスト教の生の現実を生きたかということが話題になれば、彼はたくさん本を読んだというだろう。そして、死の準備をしているかと聞けば、それはよく覚えていないと嘆くだろう。そういうものである。こうした事実が示すことは、人は本来、書物で心で受け取り、生のための知識を得るはずなのに子どもたちはそうはしていないということなのである」129項

この子どもがどの年齢の子をさすのかが問題。

126項 当時必要以上に書けることが求められている話。「書く技術の準備は、お絵かきであるべきである。」126項
127項 算数に関しては具体物を使ったほうがいいという話。


「教育が真にめざすべきところは、デンマークの民衆が、物事を洞察するたしかさ、何を意志する生と意欲と愛、そして、それらを遂行する能力と自立性を各自の能力に応じて最高レベルで獲得することである」135項


「教育が真実でかつ現実的であるためには、次の二つのことが必要なことである。
 まず一つには、教える内味について、その素晴らしさと必要性に対する生きた関心と愛が教員の個性と心情に浸透しているかどうかである。その結果、生きた言葉がもつ理解を超えた力によって、子どもたちの人格がいわば開かれ、教師が伝えようとしている思想、感情、考え方を受け入れることができるだろう。
 二つ目は、児童が彼自身の精神の生を目覚めさせるかあるいは涵養する仕方で、児童自身の精神的な立場が生き生きとして、受け入れることのできるよな性質のものでなければならないということである。」136項


「これが可能であるためには、教師が第一に精神に目覚め、生を生きなければならない。そして、子どもたちのそれを目覚めさせて育てていかねばならない。」136項

本来も目的を思い出すと、テストの点数をとらせることにきゅうきゅうとすることはないかのかもしれないです。ある程度の得点とらせてよかったことは所見を書きやすかったことと、親の安心を得られることだと思います。子どもにとっても自信につながるだろうし、ギリギリまで勉強させて再テストに挑戦させて(説得もしたけど「やんなきゃだめだよ」って強制もあった)僕はよかったと思っています。たぶん学び合いや時間をつくろうと努力してきたおかげで、多少は一学期の勉強を見直す時間をつくることができました。大人もそうだけど、子どもはもっと簡単なほうに楽なほうに流されやすい子が多いです。その中でもさらに簡単なほうに楽なほうに流れていきやすい子がいます。目的を問いかけも励ましても、もういいというし、でも時間がある限り挑戦しようということでやらせました。ダメだしをして、子どものやる気がなくなったらどうしようとか思ったのですが、でもある程度到達をねらっていて、大変だけどそこまで行けると達成感で楽しく学習が終われました、たぶん。図工とかでもねらいがあるなら、こだわって最後までやらせること。これを徹底すること2学期の課題です。内発的にという哲学との葛藤があるけど、時には強制も大切なことだとまだ思う(本当の強制はできないけど。子どもは教育を受ける権利はあってもたしか義務はないです。)。徹底的に内発的にということはできていないですが、もっと思い切って内発的な教育徹底すると開かれ来る世界があるのかもしれないです。あるんだろうな。勇気が要ります。野菜の観察でもダメだしを繰り返してよく出来たもの(五感を使った観察や比較などできている)と、自分から本気でよく出来たものじゃ天と地の差がある。最後まで丁寧にやらせたいのだけど、いかに内発的にできるかどうかがもっと大事な課題か。徹底的に内発的な教育をするには、技術が必要だし、へんなの党じゃないけど何よりも覚悟がいる。


「教師に対するもう一つの要求は、自分の話す言葉を意のままに扱えなければならないということである。この要求は、最初の要求に劣らず必要なものである。というのも、話される言葉こそが精神の道具であるからである。しかしながら、多くの人々はそれよりもペンと印刷物の存在が必要だと考えている。われわれの教育のあり方が成果を上げなければならないとすれば、生きた言葉こそがペンと印刷物よりもはるかに高く位置づけられ、その正当な場所を占めなければならない。それは、コピーよりもオリジナルなものが大事であり、肖像画よりも本物の人間が重要であることと同じである。
 キリスト者の人生にとって真実であることは、教師がそれを子どもたちに目覚めさせ涵養できるようにするために、自分自身がそれを知り、それを生きなければならないということである。それについては知識がただ教えられるというだけでは充分ではない。一般民衆の精神が眠ったままであるようなわれわれの時代においては、その一般民衆を眠りから目覚めさせるためにも、とくに精神を生きることが重要なのである。」138項

自分の精神が眠っている。目覚めさせないと。