祈り

10年くらいを振り返って、
祈りの凄いところの一つは、
感謝や思い遣りなどに欠ける自分にも、そういった心が出てくるところだと思う。



自分にまったく思いやりがなかったとは思わないのですが、
比較的ないんだなあとはよく思います(だからもっと思い遣りの気持ちをもとうよ、細かい心遣いを尽くそうよということか)。
比べる必要がないんだけれど(だから自分からあまり人と比べることはしない)、自然に比べて自己評価するものなのかなと思います。


高校生の時にマルクスの考えをしって凄く嫌な考えだと思ったことを思い出します(今の仕事や今の自分にはまったく気にならないけれど、がんばっても給料が変わらないというところが嫌だった。なぜ嫌なのか倫理のテストで猛烈に書きました)。あまり勉強しなかったけれど、大学に入ってマルクスの心が少し分かったように思う。マルクスは好きな人になりました。高校生の時を思い出すと、今よりもっと自己中心な傾向が強かったです。


祈りや信仰の奇跡は、そんな慈悲や思い遣りや感謝に欠ける自分にも、それらの心が湧いてくることだと思う。うっかりしていると、人をただ手段として扱うような命が出てくることがある(今で言えば、自分は子どもを大切にしているのかと思う。軽く扱ってはいないか。)。でも真剣に祈ると人を大切にしようとする気持ち(愛)の気持ち、人の苦しみを抜いて楽しみをという気持ち〈慈悲)、感謝の気持ちなどが殺伐とした心にも湧いてくる。よい芸術にも似たような効果がある。よい芸術は祈りみたいなものかもしれないです。


アインシュタインが悪い人を善い人に変えることほど難しいことはないと言っていたと思う。質的で評価しにくいところかもしれないけれど、そういった奇跡を起こしてきたことが信仰の歴史だと思います。いい側面ばかりではないけれど…。たぶん人が善く変わるという側面においてのみ宗教は価値があるのだろうと思います。