読書 文読む月日 子供の力

文読む月日 (中) (ちくま書房)

文読む月日 (中) (ちくま書房)

この作品は何回読んでも胸を打ちぬれて優しい気持ちになれます。
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「殺せ!……撃ち殺せ!いますぐそいつを撃ち殺せ!……やっつけろ!……その人殺しめの咽喉を掻き切ってやれ!……殺せ!……」群集のなかから一斉にそうした男の声や女の声が聞こえてきた。
 おびただしい数の群集が、一人の男を縛って通りに引っ立てていった。その背の高い男は身体をしゃんと伸ばし、頭を高く上げて、しっかりした足取りで歩いていた。その美しい男らしい顔には、彼を取りまく人々に対する蔑みと憎しみの表情があった。
 その男は、権力に対する民衆の戦争において、権力の側に立って戦っている者の一人だった。今彼は捕らえられて、刑場に曳かれてゆくところであった。
 ”仕方ない! 力がいつもわれわれの側にあるとはかぎらない。仕方がないじゃないか? 今は権力はあいつらにある。死ななくちゃならんなら、死ぬだけだ。どうやらそれがおれの運命らしい”。その男はそう考えて肩をすくめ、群集の叫び声に対して冷然たる笑みを浮かべた。
「こいつは巡査だ。ほんの今朝まで、われわれを射撃していたんだ!」という叫び声が群集のなかに聞こえた。
 だが群集は立ち止まらないで、彼はさらに先へと曳っぱられていった。昨日、軍隊に殺された人々の死骸が、まだ片づけられずに舗道に転がっているところに来たとき、群集は激昂した。
「ぐずぐずすることはない! すぐにここで撃ち殺せっ。一体どこまで連れてゆくんだ?」人々は叫んだ。
 捕らわれた男は眉をひそめ、まずます高く頭を上げただけだった。彼はどうやら、群集が自分を憎んでいる以上に群集を憎んでいるようだった。
「みんな殺すがいいわ! スパイも、王族も、坊主どもも、こんな奴らも! 殺すのよ、今すぐ殺すのよ!」と女たちが金切り声を上げた。
 しかし群集の指導者たちは、彼を広場まで連れていって、そこで始末することに決めていた。
 広場のほど近くで、群集がちょっと静かになったとき、群集のうしろで子どもの泣き声が聞こえた。
「父ちゃーん! 父ちゃーん!」六歳ばかりの男の子が、群集のあいだをくぐって、捕らわれた男に近づこうとしながら、泣きじゃくって叫んだ。
「父ちゃーん、父ちゃんをどうするんだよ? 待って、待って、ぼくを連れてって、連れてって!……」
 子供が歩いている側の群集の叫び声がやみ、群集はまるで力ずくで押し開かれたかのように、子どもに道を開けて父親のほうへ近づかせた。
「まあ、かわいい子!」と一人の女が言った。
「誰を探しているの?」と、もう一人の女が子供のほうへかがみ込みながら言った。
「父ちゃんだよ! 父ちゃんとこへ行きたい!」と子供はわめいた。
「坊や、お年はいくつ?」
「父ちゃんをどうするんだい?」と少年は言った。
「坊や、うちへお帰り、母ちゃんのとこへお帰り」と一人の男が少年に向かって言った。
 捕われた男にももう子供の声が聞こえ、子供に話しかけている人たちの声も聞こえた。彼の顔はますます暗くなった。
「その子には母親はいないんだ!」と彼は、自分の子供に母ちゃんとこへお帰りと言っている男に向かって叫んだ。
 少年は群集のあいだをくぐり抜け、とうとう父親のそばまでやって来て、その手にぶら下がった。
 群集のあいだには依然として、「殺せ! 縛り首にしろ! 撃ち殺せ!」という叫び声が聞こえていた。
「どうしてお前は家から出てきた?」と父親は少年に向かって言った。
「この人たち、父ちゃんをどうするの?」と少年は言った。
「あのね、お前」と父親が言った。
「なあに?」
「ほら、カチューシャ小母さん知ってるだろう?」
「隣の小母さんね、知っているよ」
「じゃ、あの小母さんとこ行ってな。父ちゃんも……父ちゃんも行くから」
「父ちゃんも一緒でなきゃいやあ」。こう言って少年は泣きだした。
「どうしてだね?」
「みんなが父ちゃんをいじめるから」
「そんなことはないよ、ほらね、なんにもしないよ」
 捕われた男は子供を手から下ろして群集を指揮している男に近づいた。
 「お願いですが」と彼は言った。「どこで殺されてもいいけれど、この子の目の前ではやめてください」。そう言って少年のほうを指した。「ほんの二分間ばかり縄を解いて、手を握っていてください。私がこの子に、父ちゃんと散歩しているんだ、ほら、この人、父ちゃんのお友達だよ、って言います。そしたらこの子は家へ帰りますから。そのあとで……どこででもいいから殺してください」
 指揮者は同意した。
 捕われた男は再び子供を抱き上げて言った。
「ねえ、お利口だからカチューシャ小母さんとこへお行き」
「父ちゃんはほら、ちょっとこのお友達と散歩してくる。だから家へお帰り。父ちゃんもすぐ帰るから。さあさあ、いい子だから」
 少年は父親をじーっと見つめ、首を左右にかしげて考え込むようにした。
「さあお行き、父ちゃんも帰るって言ってるだろう」
「帰ってくる?」
 子供は納得した。一人の女が子供を群集の外へ連れだした。
 子供の姿が見えなくなったとき、捕われた男は言った。
「さあ、これでいい、殺してください」
 そのとき、突然まったく不思議な、思いがけないことが起きた。ほんのさっきまで残忍無慈悲で憎悪に燃えていた人々に、一斉に同じ気持ちが生じた。
「ねえ、この人、許してやりましょうよ」
「そうだ、許してやれ!」ともう一人誰かが言った。「許してやれ!」
「許してやれ、許してやれ!」群集が一斉に叫んだ。
 と、さっきまで群集を憎んでいた傲慢無慈悲な男は、突然わっと泣きだし、両手で顔を覆って、まるで罪を恥じるかのように群集から走り去ったが、誰一人彼を止めようとはしなかった。  (ヴィクトル・ユーゴー作、レフ・トルストイ訳述)
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文読む月日は短い話がたくさんのっているからミニレッスンにいいかもしれない。