読書 the book whispere ③

テキストには帰らないけれど思いだしながら振り返り。


チャプター6(いろいろなトラディショナルな実践を否定して代わりの実践を提案している章)
共感できるところは多かったけれど納得できないというところがありました。


例えば、
ラウンドロビンリーディング/ポップコーンリーディングというトラディショナルな実践があるそうです。先生が子どもを指名して、一定の範囲を音読させます。読み終わった子は次に読む子指名します。日本で言うと相互指名を使った丸読みのような実践です。これは「経済を原理とせよ」という自分の根底に置いている教育の考えからすると、時間がかかって効果が少ないと思うのでよくないと思いました。この方法を使う機会はないかなあと思い共感できるところでした。


でも、
「読書記録」と「ブックレポート」に関しては納得できないところがあるなあとここ数日考えて思いました。


「ブックレポート」を否定する話は、ブックレポート<ブックトーク<ブックコマーシャル・ブックレビューでブックレポートは一番時間がかかって効果が少ないかもしれないという相対的な否定なら納得できます。たぶんこの順番で時間が少なくて効果的だと思います。しかし絶対的な否定なら納得できないです。僕は「ブックレポート」には「ブックトーク」にも「ブックコマーシャル」にも「ブックレビュー」にもない価値があると思う。ブックレポートも文脈によって意味が違ってきます。課題図書があって気がのらない本を読んで書くレポートとリーディングプロジェクトとPBLみたいに自分でテーマ設定して自分で選択したことを学んだことではそのレポートを書くという行為の意味が違ってくると思います。


「読書記録」も同じ。


たぶん著者はどちらかというと消極教育の先生だと思います。その慎重さと子どもたちによりそう考えは共感できるけれど、その実践の否定の方法は短絡的で疑問に思うところがあります。子どもの話や子どもの実践が形式的になってしまったことを根拠に否定するのですが、でもそれは「読書記録」も「ブックレポート」も何のためにやるのか目的と価値を子どもたちが理解していない結果だと思います。実際に価値があることが形式的に空虚な実践になってしまうことはあると思う。しかしその結果から価値がないとは言えないと思います。ある子どもがベートーベンを聴いてよくないと言ってもベートーベンに価値がないということにはならないです。


それに著者40冊を本を読もうと目標設定していますが、読んだ本をカウントするのは読書記録です。だから相対的な話なら納得できます。瑣末な記録でマイナス面が大きければ記録の項目を簡略化する必要はあると思います。


8848ページを読もうということで読書記録をさせています(それだけが目的ではないですが…。あと二種類読書記録を使っています。タイトルと日付、読んだ冊数の累計と読んだページ数を筆算できるようになっている読書記録用紙と百ページ読むと1マスぬれて8848ページの山を登ろうという読書記録用紙)。これは40冊読もう(ジャンルの指定は僕はしていないです。このジャンルの指定は面白いと思いました。冊数とジャンルの目標設定はページ数と一緒にやってみたいと思いました。自由にさせておくとかなり読むジャンルが狭くなる可能性が高いのではないかと最近思っています)という実践と似ていると思う。これはフォーラムAの実践の追試。


自分がやっている冊数とページ数の筆算、あと山の読書記録が具体的な目標設定につながって、読む意欲に繋がっているし、読書家としての自分をより理解する機会になっていると子どもたちを見ていて思います。でも、なかなか目的と価値が伝わってなくて形式的になってしまっている場合があることも事実です。今日はこの本の話をしました。「アメリカでは一年間に40冊読むことを目標にさせている先生がいるんだって。ところで8848ページの山を全部登れた人いますか?(何人かいました。2学期からだから少し難しいかもしれないけれど、それにも関わらずこの時期に読めている数人の子たちは立派だと思う)このページ数を読むとだいたい40冊くらいになると思います。読む力をつける最良の方法は自分で選んだ自分にぴったりの本を読むことです。もし今年できなくても来年の目標にするといいですよ」という話をしました。


今からでも遅くないかな。来年度はいないけれど、来年度または今年40冊読んでみようという課題を残すことはできます。ジャンルを冊数の目標を指定+読み終わった40冊の本を書き込めるワークシートを作ってみようかな…。