『脱学校社会』を読んでトルストイを思い出し、さらに
高校時代を思い出しました。
今思い出せば、
あまりにも高校の国語の授業がつまらなかったので、
読書をするか寝るしか授業中にしなかった。
それでも
テストの直前だけ準備して
平均点以上中間テストと期末テストで点数がとれましたが成績は1で単位を失いました。今振り返ればこれが国語の評価といえるのかと思います。
授業態度だけで成績をつけているとしか思えない。これは国語ではない。
はじめから評価まで授業は何もかも不誠実でびっくり仰天です。


トルストイは根本的に正しいのかもしれない。イヴァン・イリッチに通じている。

高校の教育は思い出すと吐き気がする。

学校卒業資格という仕組みに関しても冷静に考えるとおかしい。
自分の場合、友達をのぞいて、学校卒業資格というもの以外に
授業を受ける理由は何もなく、学校にいる理由は何もなかった。




トルストイ『文読む月日(上)』から
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「私としては、教師たちは教師たちで講義の時間を決め、学生たちはそれに出席するもしないも自由、という具合にしたらいいと思います。まったく奇怪至極な教育制度をでっちあげてしまったわれわれの目に、それがどんなに不思議に見えようと、完全な学問の自由こそ、換言すれば、学生たちが行きたいときだけ勉強に行くことこそ、およそ実り多き教育に不可欠な条件です。それは、食物が真に身につくのは、本当に食べたいときに食べた人の場合だけであるのと、なんら変わりはないのです。ただ、そのあいだの違いといえば、物質的な事柄では、自由の欠如による弊害はただちに現われ、たちまち吐き気がしたり胃が痛んだりするけれども、精神的な事柄では弊害はそう早く現われす、一年間くらいそのままだったりすることです。そのように完全な自由を保障してやってはじめて、優秀な学生を能力の劣った学生のおかげで足ぶみさせることなく、その持てる能力を最大限に発揮させることができるし、そうしたよき学生こそ、最も必要な学生なのです。そうした自由が与えられてこそ、もし適当な時間に自由な条件下で教えられれば大好きになるであろう学科を、学生が毛嫌いするという、よく見受けられる現象も避けられるでしょうし、さらには、どの学生がどの学科に適するかもわかるでしょうし、まったく自由のみが、妨げられることなく教育効果を上げうるものと言われねばなりません。そうでないとわれわれは、学生たちに向かって、人に暴力を振るってはいけないと説きながら、われわれ自身が彼らに対して残酷極まる知的暴力を振るうことになると思うのです。
 以上のことを実行するのはなかなか困難であるとはわかるのですが、自由の欠如が教育に致命傷を与えることを知る以上、やむをえないことではありませんか。いや本当はわれわれが、馬鹿な真似はいっさいやめようと固く決心すれば、別にそう困難でもないと思うのです。」529項