禁酒10日目。
やはり職場で準備しようと思ったけれど面接の準備もあるので家か。

祈って考えよう。まずは30分間唱題。



先輩たちは背中でみせてくれる、がんばって。
自分ひとりのためだけだったら、それほどがんばる必要性ってまったくないと思うことがありました。自己成長のこともそう。自分の一人のためだけだったらそれほど成長する必要は別にないかもしれない。けっこう大事だと思っているところです。突き抜けて成長していく人とか、やはりがんばっている人は、善良の証拠がある。他人に求めることではまったくない。でも自己犠牲的な行動をしている人がたくさんいる。



ある意味カラマーゾフの兄弟にある主題は本当のことなんだと思う。
『自由からの逃走』にあったように自己犠牲には2種類ある。
ファシズムが求める自己犠牲と
エスブッダの自己犠牲は当然違うんでしょうね。


違いを見つけるって小学生の目標みたいですが…。



積極的な自由の原理とは「独自の個人的自我に優越した力は存在せず、人間はその生活の中心であり目的であること、また人間の個性の成長と実現とは、目的それ自体で、たとえより大きな尊厳をもつように思われる目標にも、けっして従属しないということである」(291項)
「真の理想にはすべて一つの共通したものがある。すなわちそれらは、まだ実現されてはいないとしても、個人の成長と幸福という目的にとってのぞましいものを求めようとする欲求を表現しようとしている」(292項)
「真の理想とは、自我の成長、自由、幸福を促進するすべての目標であり、仮想の理想とは、主観的には魅惑的な経験(服従への衝動のように)でありながら、じっさいには生に有害であるような、強迫的な非合理的な目標と定義するにいたる。いったんこのような定義をみとめれば、本当の理想とは、個人に優越するある仮面をかぶった力ではなく、自我の徹底的な肯定の、明らかな表現であることになる。このような肯定と対立的な理想は、すべてまさにこの事実のよって、理想ではなく、病的な目標であることは明瞭である。」(293項-294項)



フロムは合理的権威を例外として認めている。「合理的権威は―真の理想のように―個人の成長と発展という目標をもっている。それゆえそれは、原則として個人やかれの現実の目標と対立することはなく、かれの病的な目標と衝突するのである。」(296項)


非合理的権威に対する徹底的服従と自己滅却的自己犠牲を批判しているのに共感。「われわれの定義によると、自由とはより高いどのような力にも服従しないことであるが、これは生命の犠牲もふくめて、犠牲というものを排除することになるであろうか。このことは、ファッシズムが自己犠牲をもっとも高い徳として要求し、多くのひとびとにその理想主義的な性格を印象づけているこんにち、とくに重要な問題である。(原典の初版は1941年)この問題にたいする答えは、これまでにのべたことから論理的に帰結してくる。犠牲にまったくことなった二つのタイプがある。われわれの肉体的な自我の要求と、精神的な自我の目標とが対立抗争することがあること、すなわちじっさいに、われわれの精神的自我の統一性を確保するために肉体的自我をときに犠牲にしなければならないことがあるのは、人生の悲しむべき事実の一つである。この犠牲はけっしてその悲劇的な性質を失わないであろう。死はけっして甘美なものではない、たとえ最高の理想のためにたえしのぶばあいであっても。死は言語を絶してつらいものである。しかも死はわれわれの個性の最高の肯定であることがある。このような犠牲はファッシズムが教える「犠牲」とは根本的にことなっている。ファッシズムにあっては、犠牲は人間が自我を確保するために払わなければならない最高の値ではなく、それ自身一つの目的である。このマゾヒズム的な犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちにみている。それはファッシズムがそのあらゆる面にわたってめざすもの―個人的自我の滅却と、そのより高い力への徹底的な服従―の最高の表現にすぎない。それは自殺が生の極端の歪みであると同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的統一性を求める非妥協的な願望を前程とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻をかくしているにすぎない。」(294、295項)



こんなこと考えている場合でない。