ウェーバーの命題 続き)

「ある人を偉い学者や大学教授たらしめる性質は、かれを実際生活上の、なかんずく政治上の指導者たらしめる性質とは違うのである。・・・憂慮すべきは、教室で指導者ぶることが一般に大学教授に放任されている場合である。なぜなら、自分自身を指導者と思っている人ほど実際にはそうでないのが普通であり、また教壇に立つ身としては、自分が実際に指導者であるかどうかを証明すべきいかなる手段も与えられていないからである」

(『職業としての学問』から)


ウェーバーの命題についての注釈 続き)

マックス・ウェーバーが学生たちに向かって切に訴えたかった論点は、教師(この場合、主として大学教授をさすが)には人生の指導者たる能力も無いし、はじめから当該指導者たる資格も与えられていないのだから、左様な《無いものねだり》は慎んで頂きたいということに尽きる。教師に出来る仕事の全部は、その理を学生たちにわからせるというに尽きる。学問それ自体も、社会の趨勢とか、時代の宿命とか、そういった人間の力を遥かに超えた《なにものか》を前面にしては、全く無為無能であるほかないのだから、偉そうに《先生づら》して他者(=学生・生徒)に対し指図がましい言辞を弄することこそ厳に慎むべきである、というに尽きる」

(『斎藤正二著作選集7』八坂書房から)


牧口常三郎の命題)

「一般教師が烏滸がましくも子弟の進路の目標となり、模範となるといふが如き、素朴的な観念を持つのは以つての外の妄想」

「出来もせぬ責任を教師に負はせて、おだて上げながら、其実軽蔑し冷遇をなしつゝある社会の錯覚も、知らず識らずの間に自他共に虚偽の生活を容認することとなる」

「従つて教師は自身が尊敬の的たる王座を降つて、王座に向ふものを指導する公僕となり、手本を示す主人ではなくて手本に導く伴侶となる」

牧口常三郎創価教育学体系』第4巻から)


牧口常三郎の命題についての注釈)

「教員社会の偽らぬ現実に失望した牧口は、どだい人間は過誤を犯し欠陥に満ちみちた存在にすぎない、だからこそ、理知を働かせてせめて人類普遍法則に向かっておのがじし自己修正をつづけてゆく必要があるのだ、そのために、教師は虚偽や幻想や思い上がりを排し《教育技術者》に徹せよ、との謙虚冷厳の提言をするのです」

(斎藤正二『牧口常三郎の思想』から)