愛する人生の先輩Tさんの記事 メモ
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「縁」のもともとのサンスクリットはpratyayaで、偶然そこにいるもの、偶然そこにいる人と言うぐらいの意味ですね。
だから、偶然そこにいる人を他人事と無関心にならずに、お互い様と支えましょう、と言う意味です。
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先ほどは、iPodTouch(貧者のiPhone)からだったので、説明が途中でした。

「縁」のもともとのサンスクリットはpratyayaで、偶然そこにいるもの、偶然そこにいる人と言うぐらいの意味ですね。

だから、偶然そこにいる人を、他人事とか無関心とかにならずに、お互い様と支えましょう、と言う意味です。

「因縁」とかいいますが、「因」はhetuで、原因ですね。
「因」と「縁」は、簡単にいうと、正反対の言葉です。

この「因」とかを立てると、決定論、つまり、今は過去の因によって決定されているとかいう、差別論になります。

つまり、今、貧乏だとか、今、王様だとか、今、障がいがあるとかを、
過去の「善業」とか「悪業」とかにタグづけする考え方です。

今の世俗的価値観(金持ちが上、貧乏人が下など)を、
過去世とかいう「宗教的(っぽい)」価値観にまで影響を持たせるというので、どこの閉ざされた宗教にもあって、

いわば、今、世界宗教(この言葉も通俗的なので、使いたくないのですが、いわゆるという意味で)というものは、
これを克服するかたちで、広がりを持っていったのです。

たとえば、イエスがでてきて、ユダヤ教の一部の差別主義と対峙して、例のヨハネ福音書の9節にある話をするわけです。

つまり、イエスの時代のユダヤ教では、
体に障がいがある人を、家族の罪、本人の過去の罪とか言ってるが、そうではない。

私たちは、体が壮健だ、金持ちだと傲慢になる。
そうならないように、
神は、自分の使いを体の不自由な人として、貧乏な人として、
この世に送る。そして、人々を良心に目覚めさせる。
体の不自由な人は、罪人ではなく、神の使いなのだ、
ーーという考え方です。

この低俗なhetuとのタグ付けを批判してでてきたのが、
ゴータマ・ブッダの「縁」の考え方です。
天才でしょう。これデヴィッド・ヒュームですよ。

つまり、「たまたま」。

でも、たまたまだから、ほっとけという話ではなく、
今、目の前の人と、関係性のなかで生きているのだから、
無関心ではおれないだろう、という話。

つまり、「縁」は「因」を批判して出来てきたのです。

それが、その批判精神が忘れられて、十二因縁とかいうのがでてくる。

「法数」といって、数で整然とまとめられたのは、
後の時代の、出家たちの数遊びです。

でも、あれも、最初は、「固定的な私がある」「固定的なバラモンというものがある」「固定的な外国人(ヨーナカ=ギリシア人)」というのがある、という、自己中心的なヘイトスピーチを批判して、

そういう、人間の判断により出来た「分類」「区別」「差別」というのは、我執によるのだ、という、因果の立て方なんです。

因果といっても、時間的に、あれがあって、その結果、あれが生じたというのではなく、我執があるから、いろんなことに差別的な見方をする、という因果の立て方、縁起の立て方です。

それが、時代が経るにつれ(時代が経てば、すべて反対になったりする)、因果、縁起が時間的に解釈されてくるわけです。学問的には、「胎生学的因果論」ともいいます。

ああいう因によって、子どもはこんな形で産まれるというね。

せっかく、ゴータマ・ブッダは、それは人間の頭の中で考えたフィクションにしか過ぎないとしたのにね。

それを批判して、ナーガルジュナがでてくるわけですよ。
因縁とか、我とかいうのは、実体ではなくて、すべて人間が頭の中で作った無実体のものであるとね。

ちょうど、このころに(厳密にいうと、少し前に)「ジャータカ」という一群の伝承が生まれるのです。

つまり、ゴータマ・ブッダは、あるときは、鹿として、あるときは小鳥として、あるときは、商人として生まれてきた。
そして、他者を支える行動をした、という何百という物語が作られていった。

これわかりますよね。

つまり、それが意味するのは、あなたの前にいるホームレス、あなたの横にいる犬、それは、不潔で危険な排除すべき存在ではなく、仏かも知らない、という話です。

今の話なんです。

それが、すべて忘れ去られていく。

また、過去現在未来の時間的な話となっていく。

違うんですよ。

すべて、今のあなたの横にいる人に無関心になるなという話なんですよ。

縁起にしても、ゴータマ・ブッダの過去譚にしても。
今なんですよ。他者なんですよ。

それが、退行していくんですよ。時間的な過去現在未来の話に。

仏典が何を言ってるのか、簡単ですよ。

風邪引きの、となりの一人暮らしの人に、お粥を持っていこうです。
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ブッダの思想は今でも、これからも心のよりどころとなってくれると思う。