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ディベートのうさんくささというのは、
語るということを、交流ではなく、技術の問題としていること。

知性というのは、自分を表現する力ではなく、
他者を受け入れる懐の広さを言う。
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なんと言っても、「ディベート」を日本の教育界に導入したのが、あの南京大虐殺はなかった!従軍慰安婦は嘘つき!憲法改正!のヨタばなしの元祖、藤岡信勝であると言うことは、心しなければならないことだと思います。

そして、今まで良心に従って、議論の余地なく当然のものとされていた、不戦の誓い、平和、人権と言うものが、ディベートの対象になって行ったのです。

アメリカとは違って、日本の場合、まず最初にディベートのテーブルに載せられたものの多くは、従軍慰安婦問題、日本の戦争犯罪憲法九条問題、沖縄基地問題など、いままで、まったく「自明の理」として、みんなの「良心の常識」になっていたもの。

それは、疑うことなく、あかんやんという良識を、悪い意味の相対主義、両方ともの言い分があるやん、という土俵に引きずりだすために、藤岡信勝らによって、「ディベート導入」は、仕組まれたものなのです。

ことばは、「臨床のちから」を持つかどうかということがもっとも大事です。

津波で、三人の子どもを亡くした母の横で、
「母親の責任と社会の責任」とかいう、ディベートできますか?
ディベートで培ったちからは、その時、役に立ちますか?
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敬愛するTさんの記事。
藤岡信勝氏は授業づくりネットワークのはじまりでもある。
僕はディベートを全否定するつもりはないけれど知っておくべきことだと思います。
授業作りネットワークが、藤岡信勝氏の後に教育のために献身的にがんばってきたことを重要なことだったと思います。僕はとてもお世話になっています。でもこういう側面を忘れてはならないし、知ることは大切だと思います。


ただ母校の中高はディベートがめちゃくちゃ強いです。