自分の勉学のために、Tさんの言葉をメモ
================================================
法華経』の「法師功徳品」「分別功徳品」は、
信心したら、こんな功徳ありまっせー、という話ではなく、

讃仏文学の伝統に立ちながら、
無仏の時代に生きる人々の姿を賛嘆する、
讃菩薩文学なんだけどね。

法華経』は、すべて、一切衆生皆菩薩、利他に行きよという話です。
==================================================

================================================−
傲慢なエラい人が、「仲良くしろ」というのと、
ほんとに、何十年も面倒を見てくれてる人が「仲良くしたほうがいい」という、
「仲良く」ってのは、全然意味違うでしょう。
あなたは、いつも、「言葉」にこだわりすぎる。

言葉なんて、意味ないよ。

どんな表情で語るか、そういうノイズが大事なんでしょう。
===================================================
===============================================
誰が言ったかによって、全然意味が違うよ。
====================================================−
================================================
議論なんてバカなことはやめろって。
不毛な議論なんてない、すべての議論が不毛なだけ。

僕は、議論ということばを使うヤツが大嫌い。

批判か、支え合うか、そのどちらかだ。
===============================================

=================================================
何度も言うけど、何を言うかではなく、誰がいうかのほうが、真実を語るのです。
================================================
はっとする。
「大切なものは目には見えないんだ」(サン=テグジュペリ
「原文はL'essentiel est invisible pour les yeux.なので、現今の教育関係者向けに「本質的なものは可視化できない!」と訳すべきか」とI先生が言われていたことを思い出す。

意味は関係から生じるから、テキストだけ見ても真意はつかめない。
誰がいったのか、どんな文脈で言われたのか。
それを考えないと歴史上の人物、例えばイエスについても日蓮についても理解することはできないのだと思う。



「不毛な議論なんてない、すべての議論が不毛なだけ。」
この部分は自分の仕事から、
教育論について思った。
新教育と旧教育、
問題解決学習と詰め込み教育の対立や議論などたしかにその議論のすべてが不毛かもしれない。


理解と自動化という学習の目標のどちらかではないのと同じ。それらのどちらが正しいのかという議論はたしかにすべて不毛と言い切れるかもしれない。理解も自動化も知性を磨くこと、育てることも学習では大事。どれかなんていう議論は不毛で、それらのそれぞれの価値は認識の先に誰にでも自明のことであると思う。



立憲政治とは「議論政治である」(牧口常三郎) という言葉も思い出す。
ここでいう「議論」とTさんがいう「議論」また意味が同じではないと思う。


あと認識>議論なんだと思った。
認識がしっかりしていれば、議論なんていらないのかもしれない。
どうすればいいのかなんて、確かな認識に先に自ずと出てくるのではないだろうか。


議論というよりは
政治という場が、
どうしたら人権、自由を守って、すべての人の命を支えあえるのかという方向に知性を使うようなところで常にあるべきなんだと思う。
そうなっていないのがあまりに幼稚で次元が低いのかもしれない。


やはり僕は本を読むって大事なことなんだと思う。
書いてあることに耳すませるとうのか、認識する、受容するというのか、
まずそれが大事なのかなあって思う。


しかし文学作品を読んで、
テキストの中だけで、ああでもないこうでもないって解釈したり議論したりする経験って本当に馬鹿馬鹿しいと正直思います。何年も前からよく思うこと。


まず聴くこと、読むこと。