愛する人の記事
====================================================
「大我」とは?
ガンジーは、マハトマ・ガンジーですよね。
あの「マハトマ」は、「マハートマン(マハー・アートマン)」、つまり、「大我」という意味です。
「大我」というのは、バラモン・ヒンズーの考えですが、誤って仏教の言葉であると思っている人がいます。
中学の歴史や、高校の現代社会、世界史で習ったように、「アートマン」と「ブラフマン」の合一、「梵我一如」は、バラモン教の基本的な考え方です。
(厳密にいえば、ブラーフマナ文献には表れず、「カウシータキ」「チャンド—ギヤ」「ブリハッド・アーラーヌヤカ」のウパニシャッド古層に現れ、ヴェーダーンダ哲学で発展します。ただし、「ブリハッド・アーラーヌヤカ」のヤージナヴァルキヤの発言は、梵我一如を否定する要素がある)
対して、ゴータマ・ブッダは、「アートマン」を否定し、「無我説」を唱えました。
(ここまでは、中学・高校で習っている)。
しかし、ゴータマ・ブッダの死後、その思想をまとめなくてはという、善意の出家者が現れ、現実の人々の生活から微妙にはなれた場所で、その思想がまとめられていきます。
その中から、説一切有部がでてきて、ゴータマ・ブッダが否定した「我」を始めとする、現実生活で実証できないものを、次々と、「存在するもの」として認めていきます。
これに対して、第二のゴータマ・ブッダであるナーガールジュナが現れ、やはり、それらは、人間の頭のなかで、虚構されたものであると、説一切有部の「実体化」を脱構築していくわけです。
でも、実体化の誘惑(きちんと体系づけたいという誘惑、はっきり説明して欲しいという誘惑)は避けられず、特に、ヨーガ(ここでは、瞑想)をする人たちは、あろうことか、バラモン教そのものである「梵我一如」、つまり、「小我と大我の合一」まで認めてしまうわけです。
ちなみに、「大我」という概念は、近代にとってもとても都合がいい考えで、第二次大戦中の日本の禅宗諸派は、「小我を捨てて大我に生きよ」と、「滅私奉公」、戦争を肯定していくわけです。ここでいう「大我」とは、「神国日本」であり、「八紘一宇」です。
また、安直ビジネス本などでも、大我大我と、組織の歯車になり、人を使い捨てる口実として、この言葉はでてくるわけです。
さて、ままバラモン教の「大我」まで出てきた仏教の流れに対して、ゴータマ・ブッダ=ナーガールジュナの系譜は、どのように批判したかというと。
「大乗荘厳経論」に明確なのですが、「大我(マハートマン)とは、大衆(マハー、マハット)を我(アートマン)と見なすこと」、すなわち、「我というものはない、あえていうならば、他者を自分であると見なし、同苦せよ」ということなのです。===================================================