今日のKさん

日蓮とその弟子たちとのあいだには、わりと、なんでも言い合える空気、みたいなものがあったんだと思う。弟子たちが、日蓮の偉大さをどこまで感じていたのか、それはわからないけれど、すくなくとも、「これをお師匠に言うのは、はばかられる」みたいな遠慮は、なかった。
戸田先生の質問会で、よく「小児まひ」の相談が、会員からでた。あまりにもでるので、戸田先生が、いちど、「ぼくは医者じゃないんだ!」とキレたことがある。それと似たような感じで、波木井実長なんかは、「えっ、そんなよくある質問、いまさらする?!」みたいな問いを、晩年の日蓮に投げかけている。でも、日蓮は怒るどころか、丁寧に答えている。
なんでも言い合える空気って、大事。
たとえば、批判とかも受け入れるような、あたたかい、やわらかい態度が組織にないと、みんな息苦しくなってしまう。批判をしただけで、煙たがるようなリーダーは、狭量であると断じるしかない。


ファシリテーションの本を思い出します。



日蓮が現代に生まれたとして、日蓮は、はたして法華経を最上の教えとして選ぶだろうか。万人平等、人間尊敬、生命尊厳という考えは、普遍的な思想には、最低限そなわっていなければならないものであって、思想的には、「そこから」が大事。
鎌倉時代に、「男女はきらふべからず」といって、日蓮が、男女平等を革新的に説いたからといって、その先駆性を現代に訴えても、思想的には、あまり意味はない。鎌倉時代は、それ以前や室町時代より、女性の権利は守られてた、わりといい時代だし。法然も、遊女の往生を説くし。
でも、「そこから」の部分に着目している人って、意外と少ない。転重軽受とか、願兼於業とか、デフォルト以前の物語で満足して、また、「生命尊厳」とかいうだけで、世界一感を感じているようでは、もったいない。
もっと、日蓮釈尊は、豊穣だと思う。「そこから」を深めていかないと、世界にでたら、相対主義みたいなものに、みんな、かぶれちゃうよ。

豊穣、プラトンもそうだと思う。本質学は創造的だって苫野さんがエッセイで書いていたけれど、同じように脱構築も創造的で、そんなことを思った。脱構築は前にも書いたけれど、ただ破壊して終わりではなく、新たな意味の可能性を開くものでたんなる相対主義ではないと思う(たまに読んだ記憶がある脱構築が単なる相対主義だっていうのはデリダに対する誤解だと思う)。本質学で、構造構成主義って何かの創始者みたいに書いているところに疑問がある。僕の勉強不足だと思うけれど、何が新しいのかよく分からない。プラトンや、カントの近代哲学の営みの延長にあって、どう新しいのだろう。別に新しくなくてもいいのだけど。ちょっとあまり関係ない話に脱線。でも大学生の時のその構造構成主義の本を読んだけれど、細かいところを忘れてしまった。


現代にあっては、「万人平等、人間尊敬、生命尊厳を説いている唯一の経典が、法華経です」といっても、「ふーん」で終わる可能性がある。「そんな価値観、ふつうじゃん」みたいに。ちょっと勉強した人なんかは、「えー、般若経のほうが、変成男子とかをまじえずに、ストレートに女人成仏を説いていて、かっこいいっしょ」「女性の成仏を説く経典、ほかにもあるし」というかもしれない。世界は、みんな、「そこから」のところにいて、「そこから」の深い哲理を求めている。それに応じられない思想は、衰微していくしかない。

確かにその通りだと思う。