僕の認識は明らかに不十分だけど、
ある議員の言葉(論理)を読んで悲しくなった…。
完璧な回答などないけれど、彼らは失敗した時に責任をとってくれるのだろうか。
彼らが責任をとれるわけない。その議員が憲法学者に対して言った言葉はそのままブーメランのようにその議員に帰ってくる。何がリスクが少なく真に国益になるのかよく考えてほしい。



いくら仕事があっても、
政治について自分のできる認識すること。堕落しているだけか、自分は。


その議員の発言を読んで前も失望した…。
そういう発想、論理の人なのかな。
詭弁だと思ったけれど、
論理っていうのは、どんな結論でも味方できるものなんだなって、最近たまに思う。
どんな結論でも正当化できる。それが論理の力。
でもそこで正邪っていうか、価値っていうか、何が正しいのか見極める力が大切だと思う。
ここでも夏目漱石の言葉を僕は思い出します。



「学問は綱渡りや皿回しとは違う。芸を覚えるのは末のことである。人間が出来るのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る。好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。」夏目漱石



暴力の機会を増やすのは、リスクを高めると単純に思うけれど…(暴力を制限してそれでやられたらそれまでじゃないか。ベストを尽くしているのだから。賢明だと思う)。
武器がなければ、その武器による暴力は存在しないのだ(核兵器はもつべきではない)。
その暴力の機会がなければ、その暴力の機会によって、その後に起きる暴力は存在しないのだ。
世界は感情も含めて論理的にしか進まない。



と書いて
酔っぱらいの本を思い出した。
あの著者が今生きていたらどんなことを言うのだろう。

三酔人経綸問答 (岩波文庫)

三酔人経綸問答 (岩波文庫)

三酔人経綸問答 (光文社古典新訳文庫)

三酔人経綸問答 (光文社古典新訳文庫)

光文社から出ているから、それでまた読みたいな。