正義は脱構築できない

Tさん

大きな出来事は、1990年代初頭、金学順さんが、「私は日本軍の従軍慰安婦でした」とカミングアウトしてからでした。
残念ながら、日本社会はフェミニズムについても、逃げていたので、この外国人+女性のカミングアウトに対し、社会を上げてのバッシングがなされました。
この問題に対して、これ以降の日本社会を大きく変化させる出来事が起こります。
それは、「討論番組」の大流行です。
そこで、平和や人権に関すること(それは、本来、討論すべきものではなくて、その増進について、共に考えるものなのですが、その、是非を討論するのです)を、テーマに、国家主義者ベースで、申し訳程度の、リベラルな論者をだして、討論が開かれるのです。
そして、平和や人道、人権ということを主張することが、「一部の」「偏った」人たちの、悪しき性向である、との、国民的な雰囲気が醸成されていきました。
日本で、「平和」「人道」「人権」について語ると、偏見で見られ、また就職のときに、偏った思想をもつ人間であると、おもわれてしまいます。
アメリカでは、まあ、実際は人種的偏見はまだあるものの、
それを、公に主張したら、
会社は解雇されます。
そのような差別的な人間を雇っている会社であると、会社自体が、社会から判断されるからです。
日本では、まったく逆です。
「平和」や「人権」「人道」を語ると、会社や社会から、バッシングされます。

悪しき相対主義(それぞれ、いろんな考えがあっていい)ではなく、
意見の多様性を認めつつも、差別や人道的な問題など、については、take sides(少数者の側に立つ)という、
ネルソン・マンデラアパルトヘイト検証委員会ーユーゴスラビア戦犯法廷ー南米独裁政権の検証ーEU議会の成立
という、1990年代を、共に進まなかった、
日本の後退ぶりの弊害が、
今、露呈している。


数日間考えながら、「正義は脱構築できない」というデリダの言葉を思い出した。意味を正しく理解できているのか分からないけれど…。人権や平和自体の是非については、討論(ディベート)するようなことではない。悪しき相対主義ではなくて、言葉の相対性や意見の多様性は認めつつも、差別や人道的な問題に対しては、少数者や困っている人の側に立つことが大事なんだと思う。