読書 倫理21

何年ぶりだろう。再読。今読むとまた新鮮で新たな発見がある。フロイトの中でも、超自我に対する認識に変化があったのか。超自我(良心)が社会的な規範を内面化することのよって成立するのか、外に向けられた攻撃性が内向した時に成立するのかということだけど、本当のところはどうなんだろうか。フロイトではないけれど、超自我(良心)は人間に中にもともとあると考える人もいる。
この超自我に関するフロイトの論文を読んで衝撃を受けたことがあります。自分が読んだのは、超自我(良心)が社会的な規範を内面化することで成立するという結論の論文でした。なぜ衝撃を受けたのかというと、内面に強烈な規範が明確にある状態だったので、これが作られたものなのかということに衝撃を受けたのでした。こういう側面もあるのだと思う。あの時からだけではないけれど、自分の内面の変化によく驚く。マルクスに拒否反応を起こした高校生があって、その後の信仰と実践、大学時代の学問、またいろいろな人との出会いで、自分の中が変わっていった。


宗教社会学みたいに、宗教を認識すると、宗教には、確かに社会的規範の側面がある。その教義を内面化することで生き方が変わる。ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』はそういったことを扱った本。


攻撃性の話だと、ものすごく攻撃的な人が、それが内向することで、全然違う人に変わることがあるって。この側面も本当だと思う。そういう人たちを見たことがあるし、仏典には、アングリマーラという殺した人の指を首飾りにしているような人も、釈尊の弟子となって、いい人になったと書かれている。釈尊を殺そうとしたアングリマーラとのやりとりもよく覚えている。釈尊は言葉の天才。



認識と責任を分けて考えること。これから第三章。また最後まで読んでみようと思う。