二つの考え

Tさん

二つの考えがあったとしたら、おそらく、二つとも正しい。
正解などは、ない。
ただ、それぞれの考えを、絶え間なく深めているか、浅いところで留まっているかの、違いがある。
だから、違いは、二つの考えの間であるのではなく、
それぞれの考えのなかにある。

昨日から心に引っかかっています。
ずっと考えている。たぶん、何でもあてはまらない。
教育理論についてはよくあてはまると思う。
でも安保法案の問題にはあてはまらないかもしれない。
例えば、あまり日本を積極的に戦争できるようにしようと露骨に発言する人は少ないと思うけれど、そういう国にできる法整備を政府が進めようとするならば、それは違憲。どちらでも正しいという話ではない。Tさんの言葉も、マンデラの'Take Sides'の原則についてふれられていたことなどから総合して考えることが大切だと思った。


教育理論については正解などは、ないと思う。
有名な人も無名な人もそれぞれ考えを実践を通して、深めていっている。



僕が特に思い出すのは、敬愛する大先輩の先生たちで、幸運にも見れたかなり前ですが、PAに大きな影響を受けている岩瀬直樹先生と甲斐崎博史先生の学級と授業と、対照的な杉渕鉄良先生の学級と授業。しかし対照的などちらの実践でも子どもたちはびっくりするくらいのすてきな姿を見せていた。どちらの実践でも子どもたちは育っている。ただ育ち方と培っている力が違うと思うけれど、どちらが正解というわけではない。それぞれの先生が己の考えを誠実に丁寧に深め続けていることを思います。深め方が徹底的で半端ない。


ナンシー・アトウェルもそういう人ですね。自分の失敗を隠さず公開して考え続けて、どんどん深化していった歴史がインザミドルなどの著書を読むとよくわかる。アトウェルは、有名になってからも、新しい挑戦をして自分の考えや実践を深めていた。


僕は小学生に戻れたら、日本のすべての知っている小学校の先生の中だったら、岩瀬直樹先生(今は大学の先生ですが)か甲斐崎博史先生の学級で学びたかったです。それでもやはり教育に唯一の正解などは、ないと思う。



有名な人も、無名な人もそれぞれ考えをもって誠実に自分の教育理論や教育への考えを深めている方がたくさんいる。特別活動が得意な先生、体育が得意な先生、作文の会で長く活躍する作文教育が得意な先生、いろいろな先生が、いろいろな視点と考え方で、教育理論と実践を深めている。僕がとても避けたいのは、自分の理論と実践を優れているものだと提案するのはとても大切だと思うけれど、それを絶対的なものとして、人に押し付けたくないし、押し付けられたくないということです。僕はこの教育業界で多くの教師が、それぞれの教育へ対する考えと思いを抱いて、それを深めていることを知っている。その一人ひとりの考え方をまず尊重したいです。その上で自分が大切にしていることなど提案したり、主張したりしたい。繰り返しになるけれど、ただそれを絶対的なものとして押し付けたくないし、押し付けられたくない。僕の嫌いなことです。いろいろ振り回されるなど、長い間イヤな思いをしてきたことです。



理論、考えの中に違いがあるっていうのは、教育理論に関してはすごくよくわかる。例えばブルームのモデル、これをさらに深めている教育学者がいたことを何かで読んだことを思い出す。こういうやって人のモデルを継承発展、進化させていくことも大切なことだと思う。



教育理論の問題と
安保法案の問題の違いって何なんだろう。


教育理論は政治的ではないのか。そういう違い?どう違う?
うまく言語化できない。


もう眠い。