「職員室から早く帰る」ということ。

「職員室から早く帰る」ということ。 - いわせんの仕事部屋

ゴリさんの問いかけはめっちゃ大事だと思う。


「必要は発明の母」か。


最近評価の問題で悩んだけれど、
評価はある程度の精度でいいと自分は考えます。精度を求めれば切りがないです。
評価の目的は子どもたちの成長のためにあると思う。
ある程度、子どもたちが自分自身のこと、
教員が授業の達成度を子どもたちのパフォーマンスを通して知り、
次へのチャレンジ、課題、目標、成長などへと繋げることができればそれで十分です。


基準をある程度共有して、証拠なるもの(何を証拠とし、どこまで証拠とするのか)を本当は年度のはじめ、学期のはじめ、または単元のはじめに話し合ってある程度は共有できるといいと思います。僕は評価基準を明確に示さない後だし評価が学び手としてあまり好きではありません。例えば算数でも社会科でも理科でもどの程度の思考判断ができれば最高段階の評価となるのか、抽象的な文言レベルだけではなく、そのあてはめの具体例として共有できるのがベストかもしれないです。この青写真のイメージがバラバラなら、必然的に評価にぶれが出てきます。具体的な指導にも響いてくると思います。


業者のテストのみで評価できるものがあれば、それだけでは評価が難しいものもありますが
業者のテストのみで評価できるものはそれだけにするとコストが少なくすむでしょう。
僕は業者のテストでも十分に正確に評価できるものもあると思う。
何を評価するのかによる。例えば四則計算の技量(正確さとスピード)、漢字を正確に書くといった学習内容の評価は業者が提供しているテストで十分、正確に評価できると思う。他にも検討して、業者のテストで済むものはそれで済ませたほうがいい。でもあまりに業者のテストだけで正確に評価できる学習内容は残念ながらけっこう少ないかもしれない。ただこれも何を評価するのか、そのテストの内容、求める精度によって変わってくる。一つだけの正解はありません。





業者のテストで目的の評価ができないものは、業者のテストをやめ、その他のパフォーマンステストなどに絞ったほうが、テストをする時間、丸つけの時間、記録の時間を節約できるだろうと思う。


こういったことは評価以外にもたくさんあるけれど、がんばりすぎて教員が疲弊しきってしまうのは、子どもたちにとってもよくないことだと僕は思います。




もし全体として、評価の基準の文言だけではなくて、具体例を示しながらその学校や地域の評価について説明したものがあると楽でいいと思う。例えば理科の観察カードなら、スケッチや観察文の具体例を示してもらって、何と何ができれば思考判断の三段階のどの段階と言えるのか明確に青写真を説明してもらえるとすごく助かるかな。もしそれを示してもらえれば、その地域の公立学校全部の評価のぶれを最小限に押さえることができると思う。これを上の方たちがやってくださると、とても現場は助かると思う。



こうだったらより楽で仕事し易くなると思うけれど、そんなこと待ってられない…。自分たちでやるしかないのか。



知識・理解をどこまで求めるかでも変わる。
深い知識の理解を業者のテストで求めることは不可能な場合が多いだろう。
その場合は業者テストと説明などのパフォーマンステストとの混合となるかもしれない。



今もそうだけど、
僕は省エネな経営(マネージメント)が好きです。それは学校でも学級でも変わりません。



多岐に渡る評価項目をできるだけ正確に評価できればいいだろうけれど、どこまでの精度を求めるかも、大切な問題かもしれない。



省エネの評価法を探究したいです。


僕がはじめて普通学級の担任をさせてもらった学校の先生だから、今はどうなっているか分からないけれど、
知人の先輩の先生で、全部ではないが、かなり多くのことを業者のテストだけで評価してしまう先生を知っています。それはそれで一つの考え方で、間違っているとは言えないと思う。業者のテストは精度は高くないかもしれないが、思考・判断や技術、知識・理解を評価できるように作られている。業者のテストに証拠を絞れば、精度は高くないかもしれないがある意味、公平ではある。その学校は大変に保護者の方の要求が厳しいところだったので、公平性のない評価、どこまでを証拠としてどのように評価しているのか説明できないのは許されない雰囲気があった。

結局求める精度とコスト、公平性の問題だと思う。



その先生はかつて海外の日本人学校に行った時に、評価だけが問題ではないのですが、あまりに過酷な労働で過労で倒れてしまったことがあったと僕に話しくれました。病休の時代について話してくれた。きっとのその経験がその先生の後の仕事に影響を及ぼしているのだと思う。先生が元気であることが大切だと考えているみたいで、多くの日に夜はジムで泳いで帰ると言われていた。


その方が明確に言われていたことではないけれど、この省エネ感覚がものすごく重要だと思う。ここから仕事の多くの大事な工夫が生まれてくると思います。


膨大なコストを総合評価にかけるよりも、
日々の授業や、教師が元気であること、教師に余裕があること、
また余暇があることの方が子どもたちにとっても価値があるかもしれません。


でも日々の授業の精度が高ければ、評価にそれほど悩まないのかもしれない。
結局基準が不明瞭だから悩むのかもしれない。
基準、目標が不明瞭だと授業のデザインはその分、
ぶれてしまうだろう。明確さに欠けるものになってしまう。


結局、抽象的な基準レベルだけではなくて、
それぞれの基準の目標の達成がどうなっていればいいのか、
明確にイメージをもてることだと思う。


このイメージの共有がないから、
評価の話し合いが食い違って残念のことになってしまうのだと思う。
絶対評価なのに、
この仕事をしていると、
人数の問題になることがあるけれど、
その違和感はやはり間違いないと思いました。


明確にするべきは求めれる目標(学習内容)とその基準、またそのあてはめ(具体例)です。その基準を超えることができれば、最高段階の評価を子どもたちは得ることができるはずです。絶対評価は人数の問題ではないです。その話し合いで、それぞれの学習内容に対して、その基準とあてはめを明確にすることをしないで、こんなはずはない、こんな評価になるはずがないと机上の空論でいくら語り合っても、話が噛み合うはずないか。お互い悲しい結果になるだけだと思う。


いろいろ考えてみて、どこに問題があったのか、少しずつ明確になってきたかもしれない。
評価会議で、
もともと話し合うところ、共有すべきところは、
基準とあてはめ(具体的な青写真、作品、証拠)についてだと思いました。


だから、その点を明らかにする問いが必要。三段階の基準に対してそれぞれどうなっていればいいのか、明らかにすること。必要なのはそれだけ。難しいことではなくて、三段階のそれぞれの基準をクリアしていればその評価になるという単純な話。それが絶対評価による観点別の三段階評価ということだと思う。





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しかしここらへんの評価法の研究から考えると、
実りある価値ある評価にするには、
パフォーマンス課題(テスト)が基本となるとは思う。


ただ僕は今年度、いろいろな学習内容があるから結局総合評価では、他のことと総合することになってしまうとしても、もし業者のテストで、その一つの学習内容を求められる3段階評価できないと考えるなら、その業者のテストをはじめから、やる意味はないだろうという考えを強めました。はじめからそう考えるなら、そのテストは目的に対して参考にならない。精度が低すぎて意味がない。特に書く領域の業者のテストはやる意味がないと前から考えていた。


業者の書く領域のテストを思い出すと、そのテストでも学習指導要領にある目標を、ある程度は確かめることができるテストにはなっていたと思う。もし作文のパフォーマンスを総合するにしても、そのテストはテストとして、仕事上求められている3段階評価するつもりがないなら、はじめからやらないほうがいいです。そのテストをしなくても学習内容(目標)に合ったパフォーマンスをさせれば、それで正確に評価できるので、書く領域のペーパーテストのほうはやはり要らないかな。



証拠が多ければいいというものでもないかな。多ければ多いほど正確になるとも限らないか。ここは大事なところだと思う。精度の低いテスト、証拠をいくら積みかねても、精度の高い優れた一つのテスト(パフォーマンス課題も含む)には敵わないか。


一瞬書く領域の業者のテストはテストでそれなりに意味があるかもしれないと思ったけれど、やはり作文の場合はパフォーマンスさせる必要があるから、学習内容にそった課題をさせるほうがいいと思う。業者のテストは必要ないかな。必要ないことはコストの面でやらないほうがいい。その方が、教師側にとっても、子どもたちにとっても幸せだろう。




また少し考え込んでしまったけれど、
評価のために学習があるわけではないのだけど、
評価って大事な問題だと思う。授業作りの大事な側面。


コストや精度、公平性の問題を考えつつも、
教師のとっても子どもたちにとっても価値ある評価法について考えていきたいです。




学習指導要領の目標に対して3段階の最高段階がどのレベルのか共有することは、大事なことだと思った。ここを明確に共有できていれば、無駄にもめないで済むと思う。こんなことの食い違いでもめたり、悩んだりする意義はないと思った。


絶対評価による3段階の最高段階っていろいろ可能性としてあり得るので、どの程度でそれぞれの段階と評価するのか、その学校で共有が必要なところだと思った。でもあの多岐にわたる評価項目についてどう共有すればいいのだろうか。だから現場の先生たちのために、上の方がそれぞれの学習内容について、それぞれの観点の、それぞれの段階の評価について、もっと明確に整理して説明してくださると助かるのだが…。現実的には難しいのかもしれない。


現実的に難しいから、基準のレベルの共有でとどまってしまうのかもしれない。



トップダウンが基準のレベルに留まるということは、
あとのあてはめは現場、学校の状況に合わせて柔軟に考えてもよいと言えるのかもしれない。その段階の具体的なレベルの設定は現場に合わせていろいろあり得る。それはもうトップダウンで基準までしか明らかになっていないのだから。


国からもない。地域レベルでもない。学校からもないとすると、三段階の基準のあてはめについては、学年で話し合って決めてくれということだろうか。


絶対評価による観点別三段階評価の各段階に評価基準について、あてはめレベルで具体的に明らかにし共有しようとしないで、公立学校の教育評価について云々話し合うことの空しさ、悲しさをこの仕事をして痛感しました。そういう話し合いは、砂上の楼閣を築いているみたいです。空虚。このあてはめも決まった唯一の答えはない。便宜的に一時的に決めるだけ。








ファシリテーションやボームの対話の考え方に帰る。
普遍的な思考法に帰る。定義することや根拠を示すこと、明確にすること。