考え続けること

I先生

ずっと日本の政治状況が気になっていましたが、海外に居ながら日本に向けて意見を発信するのが何だか烏滸がましい気がして、控えていました。しかし最近、「無事に生きているか?」と心配する方もおられるので、生存報告をかねて、最小限、最近の心境を記すことにします。
安保法制の問題については、(賛成派・反対派問わず)多方面でさまざまな意見が出されています。そのなかで私が共感するのは、自分で考えようと必死に模索している人です。つまり、最初から結論ありきではなく、自身のこれまでの政治的姿勢も含めて、再吟味・再検討をしている人です。
いま私は、特定の政党や団体に関して、擁護論や批判論を展開するつもりはありません。現在の日本が直面している政治状況については、すべての主権者が何らかの責任を負っていると考えるからです。
更に言うと、私は、いまの総理大臣はじつに独善的な人だと思いますが、かといって彼をことさらに責める気にはなれません。なぜなら、私自身も相当に独善的な人間だと思うからです。
私は、安保法制の賛成論者があまりに自信満々と語るのを見て、かえって不審の念を抱かざるを得ないのですが、かといって彼らを責める気にはなれません。なぜなら、私も自分の学説については自信満々と語る人間であるからです。
私は、安保法制の反対論者の運動や演説が、未熟で稚拙だと批判されるのは止むを得ないことと思いますが、かといって彼らを責める気にはなれません。なぜなら、私もかつては(30代初めまでは)政治的なパンフレットを編集したり、デモに参加したりした経験があるからです。
私は、安保法制に無関心であることは日本の未来にとって大きな責任を負うことになると思いますが、かといってそうした人々を責める気にもなれません。なぜなら、人間の興味関心というものは人さまざまであり、自分の関心事を中心にして他人を低く評価するのは傲慢だと思われるからです。
では、私は何をしようとしているのか? それは、ひとえに学ぶこと、認識を深めることです。言い換えれば、「これが真の平和の道だ」と自己過信して断言することではなく、「これは真の平和の道なのだろうか?」と自己懐疑しつつ探究することが、私の性格には似合っています。もちろん、すべての人がそうすべきだという意味ではありません。
かつてアフガン戦争・イラク戦争のときに抱いた問題意識を、自分なりに整理して1冊にまとめるのに10年以上もかかりました。今回見聞きした事態や、そこに抱いた疑問を、整理してまとめるには、やはり相当な時間がかかるでしょう。
安保法制に関する特定の見解を期待する方には、私の投稿は不満や失望を与えるものかもしれません。しかしこの投稿の目的は弁明ではありません。いま孤独に考えて悩み苦しんでいる人に向けて、私もまた孤独に考えて悩み苦しんでいることを告白したにすぎません。
私が共感する、そうした孤独な思索者・探究者の方々に対して、私が自分の思いを託すことのできる言葉があるとすれば、それは詩人シラーの次のような一節です。
「強き者は一人の時にこそ剛し」(『ヴィルヘルム・テル』)
いま日本の主権者に必要なのは、他人の判断に頼ったり、多数派の意見に安座したりすることではなく、そうした安易な思考の誘惑にあえて抗い続ける「強さ」なのだと思います。

恩師I先生。こういう日本語の文章を書ける人は、地球上にI先生しかいないような気もします。自分や他者についてこれから考える時に、傾聴したいと思ったので、勝手に記録。すみません。昔から変わらないのかもしれないけれど、自分もまた孤独を心に抱えて悩んでいます。でも本当に独りではないのだということも感じます。ありがとうございます。