ディベートからフィロソフィーへの展開を

Tさん

ネトウヨ的思考を培養してしまう学校でのディベート授業の現実。フィロソフィーへの転回を。
考えさせる内容です。
複雑性と変化が、事象の本質だと思うのです。
物事には、固定的本質はない、というのが、
ゴータマ・ブッダやナーガールジュナの炯眼でした。
だから彼らは、たとえば、ゴータマ・ブッダの唯一残っている、直説の言葉である「スッタニパータ」においては、「論争批判」が、その大部分をしめていたり、
ナーガールジュナは、実体主義(Aという立場に立つ、Bという立場に立つ)ディベートを「戯論」(プラパンチャ)として退けたのです。
日本において、ディベートが、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」という、戦後責任を回避するという目的で、導入され、奨励されたのも、一つ、覚えておいてもいいと思います。
立場に立つのではなく、自分の立場を常に、掘り崩していくことが、とても大事なのだと思います。

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わたしは、こどもたちと毎日接しています。彼らの話しを聞くと、小学5年生からディベートの授業が行われているのですが、その模様には頭を抱えてしまいます。
 猫がいいか、犬がいいか。
 山がいいか、海がいいか。
 ディズニーランドがいいか、ユニバーサルスタジオがいいか。
 高校生では、
 大きな政府がいいか、小さな政府がいいか。
 これを二手に分かれて言い合い、勝ち負けをつけるのだそうです。
 これは、古代ギリシャでのソフィストの言論技術ー「勝てる言い方」の習得と同じですが、それと闘い、なにが「ほんとう=真実」なのかを求めての問答法=ディアレクティケーを実践したのが、ソクラテスでした。
ネトウヨ(ネットウヨク)と呼ばれるのは、戦前思想につく人で、安倍首相を熱烈に支持する若者ですが、政治的には右翼ではなくとも、ネトウヨ的な思考=単線的、平面的な形式論理でしか考えられない人がとても多いのが現実です。学校でのディベート授業をやめ、本質に向けて思考するフィロソフィの実践を始めなければ、日本の未来は拓けないと思います。

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