1982/1/13 講義 フーコー

ソクラテスプラトンの話。
自己とは何だろうか。
自己とは魂である。



「つまり、実際に身体を、身体のさまざまな部分を、さまざまな器官を、ということは道具を使い、最終的には言語を使うことになるこの唯一の者とはいったい何だろうか、ということです。そして、これは魂であり、魂以外にありえません。」p67
「身体的、道具的、言語的なあらゆる行動の主体は魂なのです。」



今でいうと、全然違う主張だけど唯脳論にも繋がる話。

心=魂ではない。

自然科学では確か脳が身体の各器官に指令を出していることになっている。
脳=心と考える人もいる。
しかし脳は単独では働けない。身体の他の部分との関連で生きている(これは自然科学的な観察で分かることだと思う。それに心臓が止まれば、脳に血が通わなくなって、脳も死んでしまうと考えられることは、常識なのかもしれない。)。
では、その脳を含めた身体の主体は何か。それが魂だというのがソクラテスの話。


唯脳論
脳が死んだらもう何も残らないのか。
それは科学では分からないこと。残らないとも残るとも、この科学という言語ゲームでは、主張できない。これがが確実に言えることだと思う。それ以上、その限界を超えて主張するのは、科学の営みを超えている。


こうやってソクラテスみたいに考えて、身体を動かしている何かがあると考えること、信じることは人の自由だ。思想・宗教の自由。それがあるともないとも科学的に証明できる人はまだいない。これからもおそらくいないだろう。


エジソンは、この魂を発見する装置も発明しようとチャレンジしていたというの文章をどこかで読んだ記憶があるけれど…。



「自己への配慮」の思想史のキーコンセプト
ギリシャ語のクレースタイ/クレーシス。これは「使う」という意味が基本だが多義語である。

人が何かと、自分自身と取り結ぶことのできる関係のいくつかを指している。
使用と意味以外にも態度を意味することがある。


例えば日本語と同じだけど、
暴力を使うとなったら、暴力的に振る舞うということになり、「使う」は態度を意味する。同じように「情熱を使う」という表現はギリシャ語では、情熱をなにかのために用いるということではなくて、
「情熱に我を忘れる」という意味になる。


「このクレーシスの主体であるかぎりにおいての自己に配慮するということ、これこそが問題なのです。」p69


読書はこうやって振り返る時間が大切だと思う。
振り返る価値のない本は読まないことだとも思う。


五時に起きれば20分間くらい読んで10分間くらいは振り返る時間が確保できる。