フーコー 講義集成11 重要

プラトンには、新プラトン派の人たちがカタルシス的なものと政治的なものと呼んで…

p306

引用している時間がない。


プラトンにおいては、自己への配慮は他者のためにあった。
しかし紀元に1、2世紀にはそれらは分離され、自己への配慮の目的は自己自身となった。



プラトンに帰れってことかな。そんな単純な者ではないのか。



プラトン的に考えれば
自分自身を大切にすることは、他の人を大切にするためとなる。
自分自身への配慮は他の人たちのためであり、他者の豊さが自分をまた豊かにしてくれるという循環になる。


勉強や学習は何の為にやるのだろうか。
マルセ太郎という俳優が書いた手紙を繰り返し読んでいるのですが、そこに繋がった。


マルセ太郎は一方を否定して、勉強は人にやさしくするためだとするけど、
その否定する一方(自己への配慮、自己自身のため)は、もう一方(他者への配慮)に繋がっているという側面を見落としてはいけないと思う。それを見落としてもう一方だけ取ることには無理があるかもしれない。どちらか一方になるのではなくて、その関連を見落とさないようにすること。それが実相だと僕は思う。


しかしそのもう一方を訴えたのが仏教であるし、キリスト教などの世界宗教でもある。



英知を磨くは何のため。
自己のテクノロジーを他者から決して切り離さないこと。


ただそこにも問題が少しあるように思えてきた。

問題がなければ、考え方としてプラトンに帰れとなるのかもしれない。



政治学、経済学から倫理学が切り離された。


分断は死か。
分断しっぱなしだと、だめになっちゃうんだなあ。
分けて考えるのもいいけれど、
総合的に考えることも大事だという、ものすごく当たり前のようにも思える。

分断から結合へと。