フーコー講義集成12

フーコー講義集成12
キュロスの国

法律〈上〉 (岩波文庫)

法律〈上〉 (岩波文庫)

プラトンの『法律』の話。

そしてその発言の自由は、フィリア(友愛)をもたらします。その友愛こそが、帝国の隅々にいたるまで、つまり勝利した者と敗れた者、兵士と指揮者、宮廷人と他の帝国の住人、君主とそれを取りまく人々のあいだで、コイノニア(共同体)を確固たるものするのです。つまり、そうした発言の自由、そうしたパレーシアは、専制政治における自由の具体的な形態なのです。そのパレージアの内部で友愛が、つまり国家の位階制における異なる位階同士の友愛がうち立てられ、また帝国全体の統一を確かなものにする協力、そしてコイノニアがうち立てられるのです。(p252)


パレーシアには率直に話すことによる危険がともなったわけだけど、この優れた君主の中ではその危険の問題はたぶん解決されるのかもしれない。

はっきり解決されると明示されているのはちがうこと。パレーシアには危険以外の問題があって、民主制においては発言の自由は保証されるのですが、みんな好きにかって発言するのですが、真実が失われるという問題が起きるといういいます。必ずしもそうなるとは思えないけれど、民主制の歴史を学んだり、今の現代のマスコミの有様を見てきたりした僕には、このプラトンの洞察の鋭さを認めざるをえないと思う。優れた君主における専制政治では、その真なる言説を君主が保証する。そういった環境作りをする。


しかし、
民主制は、常に問題を抱えているけれど、僕も確かチョムスキーも言っていたように思うけれど、民主制が一番マシだと思う。民主制が成熟していく過程に現実なよりよい社会があるように今の自分は思います。ただプラトンが指摘するように民主制は問題をはらんでいる。民主制からナチスが生まれました。それでも専政政治には後継者問題が常に存在するので、民主制のほうがマシだと思います。優れた君主に一度は統治されたいとは思うけれど笑






パレーシアは二重の連接をともなってあらわれる。

すなわちパレーシアには、国家が統治されるために必要とされるものなのですが、また同時に、国家において、その市民たちが—いかによく統治されていようとも—市民として正しくあるために、その魂に働きかけるものなのです。(p254)


パレーシアは国家に必要なものだと考えられているのか。確かになければ困るものだと思う。