「作ることで学ぶ ―Makerを育てる新しい教育のメソッド」を読んで、著者が相反する方法や考え方を批判して、認めつつ、非難したり、排除したりしている部分で思う事。
この本に限らないけれど、他の人でも相反する考え方や方法を非難している場合。相手に対する理解が浅いことが多いような気がする。相手の考え方や方法でも、その深め方や理解が不十分な実践者の落とし穴(リスク)を指摘している過ぎない場合と、本当に相手の考え方や方法の構造的な欠陥を指摘できている場合があると思う。
これ一つで解決するような万能な教育方法や考え方というようなものを僕はまだ知らないです(おそらく存在しない【予想】)。
あとすごく新しい教育思想みたいに昨今の本で扱われているけれど(継承・発展している、どこか新しいのかもしれない。でももとのアイデアがある)、もともとのアイデアがもっと昔からある場合があることは知っておいたほうがいいような気がする。知らないから、絶対にこうするべきだと、安易に相反する考え方や方法について排除するのかもしれないと思います。
マルクスマルクス主義者の違い。
デューイとデューイ主義者の違い。
もともとが豊かなのに、後に継承・発展というよりは、内容がまずしくなってしまう場合があるように思う。また誤解して全然違う方向へ行ってしまうことも。ヘルバルトなんかはそうだった。二つの方向に分かれていった。一方は軍国主義を支える思想となったらしい、記憶によると。



「作ることで学ぶ ―Makerを育てる新しい教育のメソッド」を読んで、気づいた著者たちと自分の違い。

作文教育とものを作る教育はとても似ていると思いました。
著者たちは、ものを作る学習でモデルを示さないと明記していました。その理由は記憶ですが、モデルの影響が大きくて、子どもたちの創造性を阻害するというような内容など、いくつかありました。それぞれ最もだと思います。著者たちは、ティンカリング、試行錯誤をさせたいわけだから、自然な結論だとも思う。

僕はモデル(作品など)を示したり、示さなかったりすると自分のことを振り返って思いました。使い分け。アトウェルがミニレッスンでジャンルスタディをする時にモデルやサンプルを示すけれど、その後は自由であると自分は似ているかもしれない。図工で僕はサンプルを普段は見せるけれど、そのプロジェクトや授業内容によっては見せないという選択肢もあると思う。PAのアクティビティでは、モデルを当然、示しません。それが他の授業でもPAと同じような意図の場合はモデルを見せない。アトウェルのミニレッスン的な時は見せる。例えばそんな使い分けをしていると自分を振り返って思いました。