何か悪い結果が起きれば
関係の問題だから、
みんなに非がある。
自分を棚に上げていくらでも責めることができる。


でもそれはやらない。


こういう話がとても心に残っています。
よい学び手は誰が相手だろうと最高に力を伸ばしていくという話。
そういう学び手になりたいものだし、そういう学び手を育てたい。


よい学び手を見てきたし、
自分が逆に悪い学び手で、自分はよく学校の先生のせいにしてきたし、学校の先生を責めていたから、同じように思う。




教え手、先生、ファリテーターは逆の意識が必要になる。自分がどんだけダメでも子どもたちは力を伸ばしていきます。でもどの子も、その子らしく、その子の力を最大限に発揮できるように考える必要があって、子どものせいにした瞬間に自分の成長が止まる。もう自分ができることを考えなくてすむからだ。子どもたちのことはある意味()に入れる必要がある。ふつうの先生のそういうことを当たり前にやっている。でも時に子どもせいにしてしまう。それは僕も同じ。



僕はやはり跳んだ答えになってしまうけれど、
学び方や考え方が身に付く事、観察力、思考力が高まって行くことがとても大事だと思う。
よい学び手になるために、よい学び手を育てるために。
知ることの喜びそのもの知るとか。


ロレンスとか思い出した。たぶんそれは教育の本当の目的だと思う。
教育基本法の教育の目的の目的。



上の政治に文句を言っているだけではなくて、
ローカリゼーションとか、人間革命の思想とか、そういうところに行くのも、そのためだと思う。
政治は大きな影響があるけれど、足下から考えて行動することほうが大事だという。



デカルトにも。
自分ができることを考え行動する。あとは諦めるしかない(にも関わらず祈るしかない)。



「わたしの格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして、一般に、完全にわれわれの力の範囲にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのちに成功しないものはすべて、われわれにとって絶対的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさいに望まず、そうして自分を満足させるにはこの格率だけで十分に思えた。」38項、方法序説-岩波文庫-デカルト