無藤隆 ノート

ノートをひたすら遡って読んでいたのですが、あるところでページを消してしまった。そこまでまた遡るの大変。あとは本で読もう。



授業実践者と授業研究者はいかに関わるか
授業実践者と授業研究者はいかに関わるか


 授業実践者と授業研究者はいかにして生産的な関係を持ちうるのか。以下、授業という現象のあり方を改めて振り返りつつ、そこから授業研究者と実践者の多様な関係のあり方を展望し、相互的関係の深化のいくつかのあり方を整理したい。

授業という多様な流れ
 授業とは、典型的には、一人の教師が20人とか40人といったかなりの数の子どもを相手に、指導を進めることである。たとえ、それが45分程度のことであっても、極めて複雑で多岐にわたる出来事が並列し、相互作用している。集団全体への目標とその下での指導過程があり、子ども同士の関係と学び合いがあり、一人一人の子どもの理解のあり方が独自にある。
 そこにはおそらく多くの理解すべき事柄があり、いくつもの働きかけ可能なポイントがあり、そして実は目標そのものも長期や短期としていくつものことが並列する。だとすれば、そのあり方の解明の理論もまた指導のノウハウも特定の一つに定まりようがない。むしろ、いくつもの理論やノウハウを活用して、適宜利用し、授業の理解を進め、働きかけと改善の可能性を上げていく。そこでは、「複数主義」が原則である。一つの正解となる、あるいはベストの指導の手立てがあるとか、求められるというより、いくつも可能性を心得て、その都度の出来事に応じていく。またそこに及ばない出来事に開かれ、別な手立てを講じるべき可能性を考慮していく。

学びを介する指導と教材と関わる学び
 授業の複雑さは、単なる集団的出来事であることを越え、一人一人の学び手の理解が目指されるからであり、さらにそれを通して長期の思考力などの育成が念頭にあるからでもある。教えるとは教師が説明をしたとしても、そこから子どもがその通りに考え、さらに理解し、それが定着するという保証はない。常にそこには誤解があり、あるいは誤解以前に、思考に至っていない可能性があるのである。いや、むしろ、理解と誤解は切り離せない。理解は常にその学び手の既有知識との関連である以上、独自のものである上に、理解はより正当な理解への道筋に踏み出す過程であり、全くの正しい理解と全くの誤りの間に位置付くことなのである。
 そして、そのありようが子ども一人一人に成り立ち、各々が独自である。その誤解から本格的な理解への道筋も様々であり、どこに位置するかもいろいろである。その理解過程は数分ごとに変化し、それが45分を通して継起し、影響し合う。
 だが、その思考過程は、ある意味で教師にとって幸いなことに、頭の中に全て隠されているものではない。それは教材に対しての思考だからである。その共有された課題や教材に関わり、それについての疑問を解こうとする過程で生じる思考なのである。もちろん、そこで学び手が思う疑問や教材への取りかかり方やこれまたそれぞれに独自であり得る。だが、そこにある程度の共有性さえ確保できれば、むしろ、教材や課題を巡っての多様な考えの展開として授業として活かすことが出来る。

授業とはノウハウであり、教材である
 授業とは極めて複雑な現象であると同時に、それを簡単な仕組みとして一定の訓練を受けた教師なら実施可能なものとしているものでもある。だから、学校教育が成立するのである。
 その仕組みはいくつかから成り立つ。一つは時間割という仕組みの下で、教師が一定の課題を提出して、それをクラスが共有し、考えるというものである。もう一つは教科書や教材という共同して注意を向け、それについて考える外側にある題材である。第三は発問し答えるという授業の問答方式である。第四はカリキュラムや指導の内容の規定があることである。
 とはいえ、それは授業の実態そのものではない。実際にはそれは、先ほどから述べているような学び手の多様性と、指導法の多岐にわたる可能性に開かれている。それを初心の教師は主にはそういった外側の素材に頼ることと、もう一つは見よう見まねの伝承に頼って進めていく。
 むろん、そういったやり方はしばしば子どもの学習を深めないとか思考を展開させていないとして論難され、それは多くの場合に妥当な批判である。だからこそ、授業の実践研究が望まれ、実施され、また授業の研究が難しさを抱えつつ、挑戦的な学問となりうるのでもある。だが、その高度な授業のあり方は初歩的な仕組みから始めて深めていけるということが学校教育にとって本質的であり、また授業の検討が改善としての実践研究であるという根拠にもなる。

完成された授業はなく、作り出される
 授業は常に一回限りのパフォーマンスであると同時に、定型に基づいてもいる。それは、アートであると同時に、台本に従った型でもある。しかもそれは、台本に沿った演技である以上に、新たなことが起こる場でもある。その初歩的な形は定型に沿い、ある程度の訓練で進められるとしても、それは学び手側の多大な意図的・無意図的な協力の姿勢によって可能となっている。
 パフォーマンスの面で見れば、それは教師の直感に依存し、教師の身体性による遂行であり、教師の実践的暗黙知のもたらすであろう行為の連続である。そうである以上、卓越した教師は優れた実践を作り出すであろうが、多くの教師にとってはそれは多くの欠陥を抱えたものを越えることは出来ない。
 だが、果たして全くの優れた授業は成立しうるかと問うても良い。授業の圧倒的ややこしさのありようを思うならば、完璧な授業という完成された劇を想定するのではなく、その都度のやりくりにより、何とか終わりにまでこぎ着ける営みとして捉えた方が実際的なのかも知れない。その都度を弥縫しつつ、また子どもの思考のありようを表情や発話で探りつつ、少しでも想定した課題を巡る思考へと展開を図る営みである。そういった授業を作り出す現実の展開における営みに焦点を当ていくことが授業研究の要なのはあるまいか。

実践的研究者と研究的実践者の連続的関係
 授業の細部までも知っているのみならず、それを社会的身体的に実行するのは実践者である。その意味で、授業研究を外から行う限り、そこに届かない授業のリアリティがあり、それは実践者にしか分からない。
 だが、それは授業研究の不可能性を言うのではない。授業を進める教師にも全ての学び手の詳細な思考など捉えられないし、そもそも自らのその都度の発想と振る舞いの根拠を十全に自覚化することすら困難である。授業を進める人自身が多くの知見を用意できることは確かだが、それはいわばオンラインで起こるのであり、それをオフラインとして振り返り、取り出すことはそう容易ではない。
 そこでは手に入る全ての手法と知見を活用して、そこで起きていることを浮かび上がらせ、また可能性を作り出すのである。我々が持つであろう授業の詳細のデータはあまりに乏しい。どうあがいても、外側のものしか手に入らない。だから、授業実践者自身の反省も計画も、また外側の観察者の視点も資料も、また授業に関わる多種多様な学問的知見も全てを動員したらよい。
 そこでの個々人の立ち位置も多様にありうる。特に、今は現場教師が大学の研究者に移り、あるいは大学院に通い、論文を書くことは珍しくない。授業実践者と授業研究者は連続的な位置づけにあり、その知見も発言も連続性の中にあり、どこにも特権的な認識はない。そこには、授業の複雑さと見合った知見の多様性と、あえて言えば雑多性があってよいのである。

学ぶことの理論と教えることの理論
 学び手に焦点を当てることも、教える側に焦点を当てることも、あるいは教材に注目することも全て一面的である。それらの相互作用が授業だからである。それはまた授業の全面理論はおそらく不可能ではないにしても極めて困難であることを示唆する。まして、子どもが考えることをいかに育てるかという授業の長期の目標を表に出していけば、なおさらその理論化は困難である。
 だから、授業の全体像の理論とは概略のメドとしての記述となる。それが駄目だという意味ではなく、それは大まかなあり方を知り、詳細を展開する際の参照枠組みを果たすとともに、その枠組みのある種の改変を意識することにより、授業の可能性を広げられるということでもある。そこにあって、学び手や教える側あるいは教材などに焦点を当てた一面的理論がかえって授業の暗黙の枠組みを意識化させ、広げ、また改変していく可能性を作り出すかも知れない。
 そのことはまた、理論に従って、それに沿って授業を行うことが不可能だという意味でもある。その細部にまで届く理論は、授業の身体性や社会性や即興性を考えるとあり得ないからである。

学習と支援の実現モデルの提言として
 理論と実践が近づきつつ、実践に有用な研究知見となる一つのありような学習と支援の実現モデルを作り出し、提言することである。近年の学習科学は著しくその方向へと発展した。教材のみならず、学び手の学習のための教材・学習法・学習支援技法等をセットで提供する。あるいはそのための教師の行う授業モデルを詳細に渡り実行可能な手立てを含めて示すか、訓練課程を用意する。
 それは従来の学校教育の一斉授業スタイルとは別の可能性を広げていくときに有用であり得る。それがどちらかと言えば、実践者の実践的暗黙知を活用する仕組みとなるのか、むしろそれをあまり必要としない初心教師支援用であったり、あるいは教師なしの学習(例えば、ネットによる学習)の支援モデルであったりする。それは授業研究の一つの実用的あり方の形として、さらに発展していくであろう。

授業の詳細の記述として
 授業の複雑さを、多大な未知を含んだ遂行過程として述べてきた。そういったあり方に立つ授業改善の一つの方向はその詳細を記述して、未知をなくすというより、未知に含まれる実践の暗黙知を活用するような教師の智恵を信頼するやり方である。あるところまでは、外部の研究者は実践者と協力しつつ、授業の実態把握と記述に努めていける。そこから先は実践者がそれらの知見を得つつ、自らの実践知を自覚化し、広げて生きつつ、授業に活かす可能性を考える。それを含めた授業過程を再び研究者と実践者が記述を図り、授業の詳細の知見の深化と授業の改善とを組み合わせるのである。

授業の投げかけと改善と創造
 授業を作り出すとは教科書や指導要領といった枠からいかに巧みにそれを実現するかということのみではない。そもそも指導要領で目指している項目は多くの場合に抽象的であり、具体的な授業の中身は多様であってよいはずである。そういった目指すところと、具体的な内容の興味深さと教え甲斐の組合せとそれを実行化する手立ての創案が授業構想である。
 例えば、小学校5年生で見た授業を3年生でその学年にふさわしい形で作り替えてみる。それを投げかけと呼べば、一つの授業や素材や面白い活動等々を模様替えして、子どもに経験させてやりたいと教師は願う。それは単なる真似や導入を越えて、小学校全体の学びの一つの流れの筋を展望する営みの中でなされていくだろう。

外部的客観評価と内部的遂行評価と実践者と研究者の役割
 確かに学力を育て得たと、それをどう定義するにしても、テストその他で確認することは公教育において必要である。だが、それはいくつもありうる指標の一つに過ぎない。授業は多面的であり、それを遂行することは授業の実践知によるパフォーマンスである。子どもの学びは一人一人の知性の高まりの中での知識のネットワークの構成である。その様子を見ていくことは授業実践者自身、またそこに近い立場での研究者が、いろいろな手立てを使って行う。実践者と研究者のあり方がそこにあって交錯し、相互豊饒化し、相互浸透していくことであろう。

読書「暴力の人類史」
ピンカー「暴力の人類史、上下」青土社

 ピンカーは認知科学進化心理学の専門家で、いくつものベストセラー解説を出している。
 本書は歴史学・考古学・人類学・進化心理学認知科学脳科学の知見を総合し、人類が世紀を追うごとに暴力を減らし、さらに20世紀の後半、暴力を大幅に減らすことに成功したことと、そこに進化的根拠があることを示す。ピンカー自身の実証研究は特に入っていないが、しかし、この10年間の中のすべての科学書の中で最も重要なものではないだろうか。本書を読むか読まないかで、物事の見方は大きく変わると思う。

 第10章の「天使の翼に乗って」の要約趣旨に沿って、内容を紹介しよう。
 「現在までに多くの種類の暴力が減ってきた」(これは多数の実証研究により示されている。20世紀のヒットラースターリンやマオによる大量虐殺があってもである。)
 では、暴力を低下に向けて推進してきた大きな力とは何か。
 「平和化のプロセス、文明化のプロセス、人道主義革命、長い平和、新しい平和、権利革命、のすべに通底する縦糸を見つけようとしているのだ。これら六つの各項目は、プレデーション、ドミナンス、リベンジ、サディズムイデオロギーのいずれかが、セルフコントロール、共感、道徳、理性のいずれかに打ち負かされてきた過程なのである。」
 「長年続いてきた襲撃や抗争が徐々におさまり、鼻を切り落とすなどの残忍な個人間暴力が減っていき、人身御供や残酷系や鞭打ちなどのむごたらしい慣習が消え、奴隷制や債務奴隷などの制度が廃止され、ブラッドスポーツや決闘などの流行がすたれ、政治的殺人や暴政がゆっくりと衰え、近年では戦争やポグロムやジョノサイドが減少し、女性に対する暴力が減り、同性愛が犯罪でなくなり、子どもと動物や虐待されなくなった。これらの廃棄された慣習に共通する唯一の点は、被害者を身体的に傷つけるということで」ある。
 「慣習のほとんどが暴力の弱まる方向に進んできた。これだけ多ければ、もはや偶然の一致とは考えられまい。」
 「なかには反対方向に進んだ展開もある。第二次大戦中のヨーロッパの戦争の破壊性はすさまじく、二〇世紀中盤には大量殺人をする独裁者が絶頂期にあり、植民地解放後の発展途上国では内戦が急増した。だが、それらの展開はどれも組織的に反転させられて、その時点から、ほとんどの傾向が平和の方向を指している。」

 重要だが、一貫していないもの。一貫して暴力の減少に役立ってきたわけではないものは何か。
 兵器と軍縮。兵器は直接は関係しない。ルワンダの虐殺はなたによった。
 資源と力。そういう場合もあるが、平和な貿易も資源と力を増す。
 豊かさ。繁栄が暴力を生み出すこともある。
 宗教。平和につながることも戦争や虐殺につながることもある。
 
 世界を平和な方向に進めてきた五つの展開。
 国家。リヴァイアサンたる国家は、自国民を他国から守るための力を独占する。それが平和化と文明化を促す。とはいえ、必ずではない。力の適用が思慮深くなされねばならない。民主政治が平和主義的選択を有利にするよう働く必要がある。
 通商。暴力の強制によるのではなく、平和のうちに貿易をして、相互の利益を増進する。穏やかな通商は敵の攻撃のインセンティブを減らす(相手を殲滅したら貿易することが出来ない)。
 女性化。女性がよりよい扱いを受けられる社会の方が暴力が組織化されにくい。結婚生活は男性を女性化・平和化する。男女の均衡が取れることはその意味で重要だ。
 輪の拡大。同情の輪を拡大する。敵を愛し一体になれれば、それは自分の側となる。読み書き能力、都市化、移動性、マスメディア情報が自分と異なる他者が自分と近いことを感じさせる。
 理性のエスカレータ。読み書き能力、コスモポリタニズム、教育などにより理性的見方が広がる。それは超合理的視点から自他の利益の共通性を見させ、視点の交換を可能にする。また、現実の本質と、その論理的関係性と、事実を理解しようとする人の思考を成り立たせる心理的働きが進み、人間の営為に理性を適用するようになる。制度設計にもそれが表れ、例えば、民主的な政府、カント的戦争防止装置(国際連合みたいな)、発展途上世界での和解運動、非暴力抵抗運動、国際平和維持活動、犯罪防止改革、文明化攻勢、慎重な交戦戦術などである。次第に発達した推論能力と、協力や民主主義や古典的自由主義や非暴力の需要度の間には相関があり、多少の因果関係が見られる。

 近代は確かに、健康面、経験面、知識面での様々な利益に加え、暴力を減少させたのである。

読書「批評理論入門」
廣野由美子「批評理論入門−『フランケンシュタイン』解剖講義」中公新書
 批評理論の用語・理論の事典的解説。分かりやすい。しかも、面白い。小説の「フランケンシュタイン」を題材として、常にそこに関わって、分析例を挙げています。鮮やかなものです。
 「小説技法」では分析のための道具となるものを解説します。「批評理論」では、「伝統的批評」、「ジャンル批評」、「読者反応批評」、「脱構築批評」、「精神分析批評」、「フェミニズム批評」、「ジェンダー批評」、「マルクス主義批評」、「文化批評」、「ポストコロニアル批評」、「新歴史主義批評」、「文体論批評」、「透明な批評」に分けて、論述します。
 これらの用語や流派を知らない人は明快な解説を読むことが出来ます。分かっている人は、その分析の実例を次々に読み、分析の実際を知ることが出来ます。
 ナラティブの分析をやりたい人には基本的素養を身につけるのに最適でしょう。心理学者も批評理論を読んでおく方がよいと思います。ルーツは共通しているのですから。

読書「百ます計算の真実」
陰山英男百ます計算の真実」学研新書

 言うまでもなく、かの有名な陰山先生の本。だいぶ前のものですが、主張が鮮明なので、紹介します。
 自分の考えを簡明に書いていて、帯には「教育の常識、8割は間違っている!」とありますが、そういったものではないと思います。教育学といっても教育心理学や教育社会学は実証的だから、この本に書いているの一つ一つはおおむね昔から言っていたよということが多いでしょう。とはいえ、まとまると迫力があります。
 以下、要点を示します。括弧内は私の疑問点です。

百ます計算で子どもたちが自信を持ち、やる気が出てくる。知能を伸ばす。(知能を伸ばすというデータは疑問がありますが。集団式知能検査は多少集中して解く訓練をするとすぐに点が上がります。むしろテストへのやる気と集中力をつけたのではないでしょうか。)
・学力の底辺には健全な生活習慣があり、その上に基礎基本の学習と読み書き計算のトレーニングがあり、さらにその上に多様な学習がある。(まさにそう思います。)
・日本の学習指導要領は問題点もあるが、基本的には系統的で、よい。
不登校は朝早く起きる習慣と基礎学力をつけることでなくなる。(それは大事な要因ではあるけれど。そう簡単ではないことも多そうだが。)
東京大学は国立だから安上がり。「家庭の経済格差が、教育格差に直結する」という常識が間違っているのは明らか。(これは違うのではないでしょうか。経済格差を問題にする人は重要な要因として挙げているのであり、直結ではないし、それに受験勉強に金を掛けられるかどうかを指摘しているのです。)
・「ゆっくり丁寧にやれば、わからない子も理解できる」という常識が信じられている。(そういう思いこみがあるかも知れませんが、教育心理学者は時間を掛けることと指導の工夫の双方を言っています。特に分からない点を見つけることが大事だと指摘しています。また、読みや計算といった基礎課程はスピードが大事だということの心理学の実証研究はたくさんあります。)
・怠けない、人(自分も)の心と体を傷つけない、嘘をつかないという約束が大事。(それはその通り。)
・体育が大事。自信と向上心が芽生える。(これもその通り。)
・子どもの間違っているところを早期に発見して穴をふさごう。(これが教育心理学で長年言ってきている診断テストとその治療的教育です。)
・基礎基本の先の面白く子どもにとってプラスになる授業が大事。例として、運動会のピストルの音を遠くに立った子どもが順番に聞こえたところで旗を上げることで音の伝達の実感を持たせるという授業を工夫したそうです。(面白い実例です。習得と活用と言っていることにまさに該当します。)

 私としては次のことを考えました。
 日本の教師はもっと「学習のテンプレート」(byMuto)を重視した方がよいと思います。習得すること自体ではなく、習得することが次の活用段階での理解した知識を配置するマップになるかです。都道府県名の習得がその例になります。漢字の読み書きが素早くできることで文章を読み上げる枠がまず出来て、そこに理解を入れ込めます。計算技能は例えば足す数・足される数・答えという枠を作ります。それが習得段階で出来るとそこに活用で得るところの諸々の知識を配置して、組織化していけます。
 実をいえば、何でもよいから、素早くやるように繰り返せば、計算技能は身につきます。問題の提示順序によらないようにランダムに問題を出して素早く回答するやり方は何であれ有効です。ただ、勉強の習慣が出来ることがそれ以上に大事なのでしょう。
 蔭山さんの提唱するやり方への賛否はいろいろとあるのでしょうけれど。この本を読む限り、普通のことであるように見えます。本だから反応を考慮して、極端にしていないということなのでしょうか。あるいは私が訓練的なものに賛同する立場だからでしょうか。でも、教育心理学の80年ほどの研究の積み重ねの歴史でそうなのだから仕方ないです。念のために言っておくと、基礎課程の訓練と意味理解とかその他と全部重要だという意味ですが。

質的研究の「方法論」ってあるのかなあ
質的研究について、いろいろな方法が開発され、マニュアルもあり、手順とまでいかなくても方法論の議論が活発です。何とか法を使った、と堂々と論文にも書くし、何がよいか・正しいかと論議があり、対立があります。

それはそれでよいのですが、しかし、違和感もあるのですね。そんな方法などややこしい話しの前に、ともあれ、目の前の資料に応じて、自家製でやりつつ、方法についても考えてきた身からすれば、田舎の手作りの小さな店が、「ビジネスモデル」が横行する大都会で胆を抜かれているようなものでしょうか。

ともあれ、観察や面接の資料の断片があり、総体を経験しつつ、その断片の意味を考え、 それと対話し、記述を行い、また次の断片に取り組み、などしつつ、何か見えてきたことを考察する。そういった手作業の自家製のやり方(「方法」とも言えない)で来た人間には、近頃の議論はときにまぶしすぎますね。

それは、資料との対話、ということに尽きるのでしょう。ただ、もちろん、種々の場合に応じて、コツはあるものですが。それを方法と呼べば呼べます。

教育実践研究の「仮説」
教育実践研究(特に研究指定校とか、教員の院生の実践論文とか)では、どうやら「仮説」を作り、検証するというスタイルが当然のごとくに取られるようです。私も、長期派遣の教員の方の論文指導で、指導主事からも指導があり、仮説を書くようにと言われたと当人から報告があって、最初は戸惑いました。だって、実証的心理学の訓練を受けた身からすれば、まるで仮説検証の研究などではないからです。

第一に、通常は、十分に操作化された仮説になっていない。あまりにおおざっぱなもので、まるで「子どもを元気にすると学力が上がる」みたいなものが仮説と称される。その上、どういう行動があれば仮説は肯定され、どういう行動があれば否定されるかが明示的でない。

第二に、事前・事後といった把握がなく、その仮説らしき介入をしたことにより何がよくなるかが明確でない。その前の状況の何がよくないかがはっきりとしていない。実際、附属学校とか有名学校などでは、最初から学力は高いのだから、どうして改善の試みがなされるのか理解しがたい。

第三に、授業中の行動・発言による検討は授業過程の検討として意味があるが、仮説の検証というものではないだろう。通常は、子どもに何らかの学力等がつくといった仮説なのだから、授業そのものと別に、テストなりその他で獲得されたことを示すべきだろう。

私は、上記の意味での「仮説」を推奨したいわけではない。あるいは、もっと「科学的」な仮説を作って検証すべきだとも思わない。そうではなく、単にもっと探索的でもよいだろうと思うのである。例えば、小学校低学年の国語の授業で体験的活動がどうすれば役立つのかを知りたいので、いろいろと試してみたい。あるいは、そういった授業をあれこれ見てみたい。その上で、うまくいくであろう条件をいくつか取り出したい。くらいの目的を掲げるので十分だろうと思うのである。

でも、どうしてそういうのだと、ある種の実践研究の指導者達は、科学的でないとか、研究になっていないと言うのであろうか。どこからその奇妙な科学的研究のとらえ方が出てきたのだろう。

直接教授
教育心理学のおそらく最も確かな法則は直接教授が有効だということだろう。たくさんの実証的な証拠がある。

つまり、あることを教えたいなら、つまり知識を獲得させたいなら、そのことを明確に直接に伝えるのがよいということです。  当たり前でもなく、問題解決のやり方とか、エピソードを交えるとかの有効性はかなりの条件が重なって有効になるということでもあります。  

教えて考えさせるという発想は、教えるという意味では当然のやり方です。新味はむしろ、考えさせるということの前提知識をある程度教えてしまおうというところにあるのでしょう。穏当というか、折衷的という方がよいでしょうか。つまり、いろいろな立場に配慮して、また現場で通用しているやり方に近づけているということです。

質的研究の動向
質的研究の動向  

質的アプローチによる研究が心理学・社会学・教育学・看護学経営学等の学問で近年、活発になってきている。質的な研究はある意味では大昔の古代ギリシャから行われていたに違いない。どの学問の勃興期も質的なアプローチから始まり、次第に数量的また実験的ないし統計調査的な方法論を採用するに至る。それに伴い、質的なアプローチが軽視され、予備的な研究の位置づけに置かれるようになるのだろう。

だが、近年、特に1990年代以降、世界的にまた多くの学問で並行して、質的なアプローチが復興してきた。それは、20世紀の学問の流れの中で言語を重視する立場や現象学また社会構成主義などのとらえ方が広がったことを受けつつ、従来からの質的なアプローチが認識論的にまた方法論的に洗練されてきたことが大きい。また、それと共に、どの学問においても、扱うべき対象や問題が広がり、一方でマイノリティや個人また個別的な事柄の持つ複雑さが理解されてきたことと、他方で社会的に重要な問題を取り上げることが要請されるようになり、従来からの実験的ないし統計調査的な方法ではどうしてもうまく研究対象として扱うのが難しいことが増えてきたことによる。

以下、主に心理学の動向に即しつつ若干の整理を行う。より詳細についてはいくつかの文献を挙げるので、それによってほしい。また、特に日本の動向については、「日本質的心理学会」の機関誌である「質的心理学研究」(新曜社)年に1冊刊行されているので、参照してほしい。

1.質的な研究とは何か
その定義は様々にせよ、質的な研究の最も中核となるところを挙げるならば、それは、対象についての多くの「記述」を集めるというところにある。記述を通常の言語により、通常の意味での了解を元にしていく。術語を使うとしても、しかし、観察やインタビューによる対象の記述自体は通常の言葉によるのである。現象の現実の様子を出来る限り、生に近い形で叙述したところから出発する。その点で、自然言語の豊かさとその言語で記述する研究者のやり方への信頼が基本にある。人間を介することをハンディではなく、積極的に価値づけ、利用しようとする。それは対象の持つ特徴が容易にまた一律に特定のコードや指標には乗らない多様性や多層性や曖昧さを本来的に含んでいるととらえているからである。とはいえ、研究者がデータ収集に関与する度合いが大きければ、その記述が客観的なものとは言い難くなる。様々な手段から客観性を上げる工夫があり(例えば、会話記録を文字化する)、しかし同時に、研究者自身がいわば観察機器となり、しかもその「機器」は単なるコーディングをするのではなく、思考や感情の全体を含めて感じ取ることをも込みにして、記述するなり、記述の際の注目点に反映させていくのである。つまり主観性を排除するのではなく、組み入れていき、しかし同時に、その主観性のあり方を自覚的にとらえていくのである。

次に、その記述から記述から適宜、論考に組み入れるものを選び出す。そこに恣意性が入りうる。手に入るすべてを提示し、分析するには、通常、元となるデータの量が多すぎる。いくつかを選び出して詳細に分析し、後はそれに準じて簡単に行うとか、手に入るものを順次分析して、そこで出てきた形式的スキームをすべてに及ばせるとか、テキストマイニングといったソフトを用いていくなどのやり方が試みられている。数量化する場合にはそこでかなり限定して現実をとらえているので、後は、数量化されたデータに基づいて分析は進行する。それに対して質的な場合には、現実の一端を反映する質的データは膨大な量になることが多いので、それをどう縮約して、分析可能なものにするかが重大な問題となる。この点については、まだ十分なやり方はないように思える。

第三に、記述を整理したものから一般化した論考を引き出す。出来る限り、記述に即した具体的なものにとどめる立場から、抽象度の高い結論を引き出そうとする立場まで分かれる。質的な研究であっても、単なる思索ではない以上、明快で新たな結論に至るべきである。しかし同時に、その結論がデータに基づき、さらにそれを通して現実に根ざしたものになっていなければならない。従って、面白い結論を出すことは大事だが、同時に、その結論がいかなるデータの整理に基づいているかを見えるようにしていく工夫がいる。

以上から質的な研究で特に重要なポイントは、第一に、出来る限りすべての記述を分析して、論考に組み入れる際の選択の恣意性を減らす。第二に、記述との対応がよく分かるように論考を組み立てる。第三、論考から一般化する際の限定を明確にする。ある程度の一般性を持ちつつ、記述からあまり離れない程度の制約を入れるのである。

その上で、質的研究においても、そこで得られた結論が他の類似のところにも当てはまるかどうかを問題とする。限定はありつつも、一般性を主張するのである。それは特に統計調査の論理とは異なるところとなる。統計調査の場合、母集団を想定し、そこでの無作為抽出の標本について結論が引き出されるならば、一定の確率で母集団全体にあてはまると主張することが許される。しかし、質的な研究の場合、対象記述を詳細に行う代わりに、その標本は無作為抽出でもないし、対象の数も一つ一つについて詳細な記述を行うが故にきわめて少ないのが普通だ。そこから他にも当てはまると主張することは許容されることなのか。

一つは新奇な主張を見出したり、従来の定説に疑問を出したりといった探索的な働きに重点を置く。もう一つは新たな事例にも当てはまるかどうかは一律に言えることではなく、新たな事例について分析を行い、それまでの質的な研究による知見をいわば参考として検討するというものである。当該の事例と当てはめる新たな事例との類似度がきわめて高い、言い換えれば一般化の主張での限定を強くしておくなら、似た事例への適用の可能性は妥当性が高くなるだろう。

2.質的な研究の3つのタイプ
今述べた観点から質的研究の代表的記述のタイプを三つに整理できる。 第1が、資料を一つずつ記述し、全部の資料に及ぼすものである。グラウンデッド・セオリーなどがその典型である。第2に、場を対象としてその場に関わるすべての資料を出来る限り収集し、それらを総合して場を記述するものである。エスノグラフィーなどの人類学的な手法が該当する。第3に、特定の行為に集中し、その精緻な記述的分析を通して、行為の中に社会文化の生成変化するあり方を読み取るものである。会話分析などのミクロな分析が行われる。

そのどれもが、扱う資料の総体的分析と、分析の根拠となる資料の提示、そしてオリジナリティの発見の両立を可能にする独自のやり方となっている。また研究者と研究対象となる当事者との関係をいかにして入れ込んでいくかの工夫を込めている。
以下にその方法論のいくつかを挙げて、その要点を述べる。詳細は文献に当たってほしい。
1)グラウンディッド・セオリー  アメリカの社会学者のシュトラウスとグレイザーが作り出した手法である。インタビューなり観察なりの資料を文字化した上で、ひとまとまりの小さな単位に区切る。その単位毎に他のことを考慮に入れず、そこに見られる特徴を簡潔に言葉にする。他の単位での特徴付けと比較して、次元を取り出し、さらにその次元上の値をいくつかに分けていく。その次元や値の相互関係を描き出し、理論としていく。その細かいやり方については、論者により異なるところがある。データに出来る限り忠実に理論を作るという意味で、グラウンディッド(根ざす)と名付けている。理論化も特定の場とか活動に限定的に作るという意味では大規模な理論を目指そうとしない。問題設定をある種の方向として設定して、それに沿うように標本を得ることが大事であり、標本を得つつ、上記の記述・分析を行い、まだ不足であれば、さらに加えていくというやり方で、データの収集と分析が同時的に進行し、理論的なサンプリングを行う中で理論を作り上げることが特徴である。日本では特に看護学での活用が先立っているが、心理学その他でもインタビュー研究を中心に用いられることが増え、また方法的な工夫も広がってきている。その方法論的洗練の故に、質的な方法の代表的な位置を占める。

2)ナラティヴ分析  特にインタビューややりとりなどを「語り」として取り出し、分析する。それが単なる文章の解析と異なるのは、何より、他者(聞き手)とのやりとりの所産として見なすことと同時に、当事者の経験の表現であり、かつまた、その表現されたものを通して経験の再構築が行われるというダイナミックな見方にある。とはいえ、実際にそういった見方で組織的に分析することは困難であり、分析のやり方自体は従来からの文章や会話の分析手法を用いることになる。適当な単位に分けて、言語行為として分類するとか、その行為の相互関係を記述する。またその行為を語り全体において位置付けるような関係を描き出して、解釈する。インタビュー研究を中心にこの視点は急速に広がり、社会構成主義との結びつきも強い。

3)会話分析・エスノメソドロジ  エスノメソドロジーアメリカの社会学者のガーフィンケルが創始し、サックスが展開した会話の分析のための手法であり、同時に、会話行為により維持される社会的現実の把握の仕方である。やりとりという実践行為を行うこと自体により社会的現実は構成されているのであり、そのやりとりのあり方が少しでも変わると、現実は大きく動きうる。権力関係もそういったやりとりにより具体的なものとなっているとする。特に、やりとりの番(ターン)の交代のメカニズムに精妙な社会的な関係の構成の要があるといった指摘がなされている。この考え方は会話分析の手法の基本となると同時に、社会的な現実が(心的な現実もまた)他者とのやりとりの中で構成されていることを示すアプローチとして発展し、社会学者を中心に質的な分析の重要な部分となっている。その方法の技法面はその認識論的なことを別に多くの方法論に影響を与えてもいる。

4)エスノグラフィ・フィールドワーク  現実の場の中に調査者が入り込み、そこで多種多様な資料を得るとともに、インフォーマントから現地の事情や習慣を聴取し、さらに現地での生活の実感を得ることを通して解釈を加えていく。基本はそこで通常何が行われるのかの記述である。もともと、人類学により文明社会に知られていない小社会の記述方法として作り出され、それが社会学・教育学等により文明社会の小さな単位の社会的な組織や活動の記述に導入され、心理学者も場の影響をとらえるという意味で大きな影響を受けた。エスノグラフィという人類学の呼び方からフィールドワークという現場で活動しつつ資料を得て検討していく広い意味でのアプローチに展開してきている。

5)質的観察法(エピソード法)  特に観察などで用いられる。特定の場における観察記録からエピソードをいくつも切り出し、その解釈を与え、次のエピソードに当てはめて、妥当性を見ていく。素朴な形での質的な方法である。記録自体とその解釈とを分離させて示し、かつまた対応を明確にすることが特徴である。保育・教育の世界においては、従来からの特に質的と銘打つ以前のやり方として使われてきていたが、それが、資料の記述と解釈の分離と対応という点において自覚的に展開され、方法論としての位置を占めるようになりつつある。現象学・解釈学の影響が無視できないが、各々の個別学問の自生的な展開も見られる。。

6)事例研究  特定の少数事例を元に分析する。上記のアプローチと交差するものである。臨床心理学などはカウンセリングの事例研究をよく行うが、そういったものは上記の意味での質的な研究法としての吟味があまり行われていないようである。一つの社会や社会運動や組織のあり方になると、エスノグラフィとなる。質的研究と呼ばれるためには、元の事例の要約的なしかし分析の根拠となる点の記述的な提示と、そこからの解釈の理論的な意義が明確であることが必要である。従来の個別学問での事例研究が質的な方法論の展開の元で再検討されてきており、今後、方法論の明確化が期待できる。

3.質的な研究における研究者と対象者との関係をめぐって
質的な研究のあり方の現在の展開をとらえる上で、もう一つの考慮すべき視点が研究者と対象者(協力者・研究参加者)との関係であり、その点の検討は今だに不十分であるので、特に加えて論じておきたい。その関係をどういったものとして進め、また実現しようとするかの自覚がいかなる形での質的な研究を行うことになるかを大きく規定する。

質的な研究の対象となるのは、相手やその人たちが暮らす生活の場であり、それがどうであるかはその相手がどう考え感じているかに大きく依存する。それを理解するには、研究者自らがその生活を背景として共感的にあるいは立ち入った内在的な把握を不可欠なものとするだろう。

そこで、一つのタイプとしてあるのは、当事者が自らの問題を取り上げて研究する場合である。例えば、カウンセラーが自らのカウンセリング自体を事例として取り上げて、分析する。あるいは、患者が自らの病や経験を対象とするとか、施設の改善の運動を行うなどの場合である。それらは、アクション・リサーチとして、改善と密着した分析を行う場合に意味があるのだが、もう少し広く、いろいろな対象に当てはまりうる知見を得ようとする場合には、研究者と当事者が分離する。だがそうだとはいえ、その対象ないし課題に最も密に関わるのはその当事者であり、質的な研究においては当事者と研究者が緊密な関係を作り出すことにより、研究における当事者性を可能とする。

分離しているのが大半であるがその場合、研究は一般に当事者でないからこそ可能である。当事者でないからこそ突き放して分析できるからである。その上、研究者としては、課題の解決を急ぐ緊急性を持たないので、時間の経過を気にせずに当該の現象の理解に焦点を合わせることが出来る。とはいえ、質的研究において、当事者の視点あるいは感じ方・考え方を取り出すことに大きな重きがある。そのためにまず、研究は当事者でない人間が当事者に出会う中で開始される。当事者への出会いを通して、その人および状況についての詳細な記述が可能になるからである。その際、相手との協同と信頼の関係を作り出すことが始まりである。出会いとは当事者の問題の抱え方への真摯な関心により可能となるものであり、問題の持つ切実さを感じ取る努力が出会いである。そこで時には傍らに居続けるしんどさを引き受けることも必要になる。そういった切実さをより普遍的な課題へと転換する作業に共鳴してもらえる当事者との協同的な研究のあり方が質的な研究の中核にある。

その関係から当事者の経験を取り出したいわけだが、それは容易ではない。経験自体はそのままで手に入れるわけにはいかない。必ず観察やインタビューによる記述を介在させることになるからである。そこで、当事者に近い自らのまた身近な人間の似た経験があることがとりわけ心理学的なアプローチを支えることになる。それが、人類学的な現地生活経験を通しての馴染みというフィールドワークの基本と相まって、研究を可能にする。実際、多くの研究課題において研究者にとって身近なところに似た経験があることはそう珍しくない。そこから、似た経験をつなげていくために、経験の間の経路を丁寧に辿り、相手の経験の有意味性を感じ取るところに進めていく。

その一方で、経験者がしばしば視野が狭いことに留意する。当事者はその経験に閉じこめられているが故に当事者であり、しばしば他の経験を知らないとか、他の類似の経験に気づかない。経験のどの一コマも重要に思えるからこそ、当事者であることは生々しい経験である。その経験をより広げて、他の類似の出来事において成り立つことに広げる過程が質的な研究の問題となる。

経験者が当事者に変わるのは場を持つからである。経験があることが人生の全容を覆い生活の大半を占めるような当事者となるのは生きていく場自体が関わるようになるからである。当事者はその場を維持し、生きやすくするのに必死で関わらざるを得ない。だから、相手と関わるとはその相手が暮らす場が何であるかを知ることも含めることになる。逆に、場に関わらないあるいは知ろうとしない研究者はよそ者に止まり、邪魔者であるままでいることになる。

当事者の経験を場の暮らし方と共に調べていく。だが、その抽出は単純な反映ではあり得ない。相手が語り、また振る舞う様子をそのままで素直に記述すると、それが質的な研究になるわけではない。どこかに相手のことや相手の場のあり方が分からないという違和を感じ、記述と分析の過程に持ち込むことが研究を深める。とりわけ、過剰な詳しい記述が型通りの当事者語りや場の定型的な記載の仕方を越えられる。質的な研究は常に多量の記述データを得ることに努めるのはそのためである。そのデータの山の中でまた場に身を置き、相手に会う中で、分からないことに困惑を感じてしまう。その分からないことが容易に語られないところへ入っていく手だてとなり、研究のオリジナリティへと進んでいく経路を開く。

その一方で、協力関係を築くには、当事者の何らかの発展に対して研究に協力することが役立つ可能性を開く必要がある。面談するといったことが当事者の振り返りと熟考のきっかけになるかもしれない。記述や解釈を示すことが当事者の今後に向けての発想を広げるかもしれない。また、研究の発表が当事者の考え・ありようを社会に向けて発信できる機会と出来るかもしれない。

つまり、実践も研究も互いに相手を人ごとではないとするのである。立場は違うが、互いに相手の関わり方は人ごとではなく、目の前のことを越えて世の中に広げて然るべき意味を担うと感じる。そこから、実践的研究者と研究的実践者というあり方が各々に生まれるだろう。そういった中間型が質的な研究を研究の場において規定する。質的な研究とは単なる研究の方法ではなく、研究対象者との関係抜きに成り立たないものなのである。そこで互いに入り交じりつつ、他の当事者への気づきや関わりが可能になっていき、それが質的な研究の一般性の基底にある。それはもちろん、研究者が当事者に同一化することを言っているのではなく、同じ立場に重なることもあり、あるいは異なる視点への尊重もあってよい。当事者のバリエーションと生活背景の広がりを尊重するべきなのであり、当事者といってもいろいろな人がおり、一人の中にいろいろな経験があることを承知すべきなのである。当事者の問題のある経験の背後には様々な人生上・生活上の広がりがある。問題以前に生活を生きているのである。その上で、生活の中に生きておりながら、問題を抱えざるを得ない契機を丁寧に見ていく。

以上から、質的な研究の要は、一つは質的な記述からいかにしてその具体性とのつながりを保持しつつ、いかにして考察へと至るようにするかということと、もう一つはそもそもその記述を得るにあたり、研究対象者や研究対象の場と研究者はいかなる関係を作り出すかにある。その当事者との関係は優れたデータを得るために信頼関係を作るということを超えてデータがなにがしかの共同生成の過程から生み出されるのだということの認識に由来する。


日本語で読める基本文献の案内
網羅的ではないので、詳しいことを学びたい人は各々からさらにあたってほしい。
1)基本となる入門書や文献
無藤 隆他(編) (2004) 「質的心理学(ワ−ドマップ )  創造的に活用するコツ」 新曜社
ノ−マン・K.デンジン/イボンナ・S.リンカ−ン 岡野一郎・大谷尚・藤原顕監訳) (2006) 「質的研究ハンドブック、全3巻」 北大路書房
ウヴェ・フリック (/小田博志監訳) (2002) 「 質的研究入門〈人間の科学〉のための方法論」 春秋社
2)参考になる研究例
尾見康博・伊藤哲司(編)(2001) 「心理学におけるフィールド研究の現場」北大路書房
秋田喜代美他(編) (2007) 「初めての質的研究法 事例から学ぶ、全4巻」東京図書
3)グラウンディッド・セオリー  バーニー・G. グレイザー, アンセルム・L. ストラウス (後藤隆監訳) (1996) 「データ対話型理論の発見―調査からいかに理論をうみだすか」新曜社
戈木クレイグヒル滋子 (2006) 「グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで」新曜社
4)ナラティヴ分析
能智正博(編)(2006)「〈語り〉と出会う―質的研究の新たな展開に向けて」ミネルヴァ書房
やまだようこ(編) (2007) 「質的心理学の方法 語りをきく」 新曜社
5)会話分析
好井裕明・西阪仰・山田富秋(編) (1999) 「会話分析への招待」 世界思想社
前田泰樹・水川喜文・岡田光弘(編著) (2007) 「ワードマップ エスノメソドロジー新曜社
鈴木聡志 (2007) 「会話分析・ディスコース分析」 新曜社
6)エスノグラフィ・フィールドワーク
佐藤郁哉 (1992) 「フィールドワーク 書を持って街へ出よう」 新曜社
佐藤郁哉 (2002) 「フィールドワークの技法−問いを育てる、仮説をきたえる」新曜社
柴山真琴 (2006) 「子どもエスノグラフィー入門―技法の基礎から活用まで」 新曜社 7)エピソード分析
鯨岡峻 (2005) 「エピソ−ド記述入門 実践と質的研究のために」 東京大学出版会

教科と総合を分けるべきだ
カリキュラムの構成原理としては、教科と総合は峻別すべきだと思います。  私の整理の仕方に沿って言えば、

・教科教育は知の組織化を特徴とします。一定の知識群を学習者に伝えて、組織の構成を促す指導です。
・総合的な学習は知の総合化を特徴とします。探究場面を通して、課題を見いだし、課題を詳細化し、課題を豊かなものにしていく中で、多種多様な既に獲得した知識や新たに調べた知識を動員し、体験から学ぶものと統合していくための指導です。そこでは知識は柔軟で多様な組み替えを可能なものへと変換されます。

教科教育がその本質である、伝え構成していくべき知の体系をなおざりにするなら、それは教科教育の破綻を引き起こすものだと思います。  逆に、総合的な学習が教科教育の方式になるなら、その探究性と総合性が失われます。

教科教育の知はいわば縦糸です(それ自体が幾本もの糸からなる紐という方が正確でしょう)。  総合的な学習の知はそれに対する横糸であり、その横の糸は様々な筋が可能です(環境とか、故郷とか、・・・)。自分なりの独自の糸だってありうるかもしれません。  それを折り合わせて、織物を作り出すのが学校の教育です。教科と総合はそういった意味での両輪です。

教科の方は縦に連なる団子で、総合の方はそれを横・斜めに貫く串というのも私には実感のある喩えですが。

ともあれ、教科と総合がつながりを持つべきだということを強調しても、それは二つが本質としては別個のものだということを忘れてはならないと思います。確かに学校教育の伝統の一部には、すべての教育を総合化するのを理想とする理念もあるようですが、それは間違っていると考えます。

塾に対抗する授業
クラスの何人かが塾などで既に学んでいて、その子たちが正答を発言することで授業が進んでいるという状況は結構あるのではないかと思います。皮肉に言えば、正答を既に教わっている子どもに授業の前半では正答を言わさずにいて、終わりが近づいたところで、適宜指名して、みんな分かったねと確認すれば、授業は無事に終わります。

で、そういった個人差は当然ながらあるわけですが、多くの(すべてとは言わないが)塾では正答・正手続きを覚えることがメインだから、実は浅い知識になっています。それをひっくり返して、深めていくというのが、授業の指導の一つのポイントでしょう。

では、どうすればよいのか。習熟度別といった区分けもあるとは思いますが、クラスとして進めるのであるならば、4つほどのやり方があるようです。

・あっさりと塾で学ぶ程度のことは最初に教えてしまい、授業をその後の発展に比重を移す。
・面白い、目新しい課題を用意して、塾でやっているような課題の正答の暗記では答えられないようにする。
・分かっていない子どもの分かっていない、あるいは間違えた発想をむしろ取り上げ、それを展開する形で進める。
・子ども同士の教え合いと学び合いの時間を増やし、一緒に考えることに指導の重点を置く。

箇条書きで始める文章の書き方
論説・解説風の文章を書く方に。書き方のチョー簡単入門です。  あまり上等な文章は書けませんが、注文に応じた最低限の質を確保しつつ、締切と依頼枚数を守るやり方です。

与えられたテーマについて、思いつくことを文にして、いくつも並べます。  次に流れをよくするためにその箇条書きを並び替えます。

短いものはそれをつないで文章にします。

長い場合には、
まず、最初の箇条書きの各文を節として、その下に、言いたいことを一文として3つ挙げます。4つでも5つでもよいけれど、それ以上多かったら節を増やす方がよい。
節となるものがいくつもあったら、それらを3つか4つの章にまとめて、表題をつけます(こちらは文でなくてよい)。
各節に行数を割り振り、数行のズレ程度で書いていきます。
節の中は、第一に、第二に、第三に、と分けて書くので、またその各々について行数を割り振り、それに沿って書きます。

要するに、メモは箇条書きの文とする。書くときには節や箇条書きの文に行数を割り振り、それをつなぐようにして書くのです。

なお、より論理的に明瞭にするには、間に接続の言葉(だからとか、なぜならばとか)を入れるようにして、最後に削ります。