上か下か 教師主導か子ども中心か

出張の帰りにビール一杯飲んで、
家でビール一リットルと、ほっとカクテル何杯か。
飲みながら、ぶつぶつ愚痴を含めて買いてしまった。

でも
特定の個人を傷つけるものではないし、
思考を消さないで残しておこう。



上か下か、トップかボトムかではないという今の結論。
そういえば前も同じ結論だった。


政治家は、政治家としてやれることをこれからもやるだろう。
アクティブ・ラーニングの3つの視点の打ち出しもそうだし、学校図書館に司書を配置するなどのこともそう。トップダウンで、組織的に変わって行くところがあるだろう。環境改善にも取り組むだろう。


デカルトに帰って行く。上は上から組織的に変わって行く。自分のできることをやろう。下は下から、やれることをやろう。


あと教師主導か子ども中心かという問題。
教師の視点があって、子どもの視点がある。

どちらも大事だ。

軽重はあるのかな。心情的には子どもたちに寄り添いたい。
どちらにしても子どもの視点を真剣に考慮したら、子どもたちに寄り添う教育計画になると思う。


明確なのは、子どもか教師かという話ではないということ。
民主主義は一つの社会制度。そういった大人や社会の価値観や考えと教育が無縁であることはないです。
社会化の問題もある。教育の社会化の側面は教師側の問題でもあるし、子どもたちもこの社会を生きていくわけだから、子どもたちが直面する問題でもある。少しでもこの世界で幸せに生き易くなるように。酷い苦痛や地獄が個人に社会にも減って行くように。


軽重は思考するだけじゃ出てこないか。子どもがどう認知するのか。そういった基礎研究とか、自分の経験や観察などから、軽重というか、どうするべきかは出てくると思う。


どちらが「中心(主導)」か。
やはり実りのある問題ではないと思う。二つの視点を真摯に考えるベクトルがいいと思う。


例えば個別化を推進するにしても、イエナプランのように確かな理念があって、計画的であるべきだと思う。僕はサドベリーのような学校もステキだと心情的には思うけれど、サドベリーのような学校を冷静に総合的に考えると賛同できないかな、今のところ。選択肢の一つとして、いいのかな。


この例が分かり易いかも自分が。子ども中心だったら何でもいいとは思わない。優れた子どもに寄り添った教育実践や授業があるとしたら、そこにおそらく必ず、教師(大人)の優れた考え(例えば理念など)や計画、環境改善などがあると思う。サドベリーにも理念がある。


イアンパーカー。
「そもそもスタートから間違っている。」
僕はクラスの学習問題について(クラスの学習問題が子どもたち独り独りにとって切実でなければならないという考え方について)、そう考えます。
事象の提示→問題作り。この流れで独り独りに切実な問題が毎回生まれることなんてほとんど幻想だと思う(ただこの型は絶対ではないけれど、直観から入っていて優れていると思う)。学習指導要領で必要な学習内容があるわけだから、教えるところもあるだろうし、一緒に考えていこうということもあるだろう。しかし、毎度、毎度、クラスの学習問題を一斉に学習しようというのは息苦しい。時にクラスの学習問題を考える機会があってもいいと思うけれど、全体のバランスとして個別化が必要だと思う。個別化に焦点を当てながらも、必要な学習内容を押さえる事ができることもある。