概念が先行していたんだ

大事なことに気づいた。



概念が先行していた。
ここ3、4年くらいで牧口先生のすごいところを新たに理解することができた。


牧口常三郎の宗教的な面や人格的な素晴らしさについてなどは、言われることが多いけれど、教育思想、特に教育理論について言われることがほとんどないのはなぜなんだろうと思っていました。


その理由が鮮明に分かりました。直観、体験がないから。


いくらか教育現場で授業をする経験をし、見てきて、その上で牧口常三郎のテキストを読むとわかってくることがある。


いくら概念が先行しても、直観がないと理解できない。


カントやショーペンハウワーが言っていることはほんとに真実だと思う。
老年になってやっと基本的なことが分かってくる。こんなことが人生にはよくあるのだと思う(予想)。


牧口常三郎の文型応用主義って、カントの認識論など、ヘルバルトの類化論など、シンプルかつ力強い思想と理論に裏打ちされたものです。とっても乏しいけれど、思想史の知識と教員として経験(直観)が合わさって、やっと分かってきたことがある。概念が先行していたんだ。


文型応用主義は、
なすことによって学ぶという子ども中心主義に位置づけられてきた人たちがよく言ってきたことや、教師主導の計画、意図などの境界にある。なすことによって、直観によって、アナロジーによって、子どもたちが知識、概念を自然に構成できるようになっている。意図的でもある。経済的でもある。その背後にあるのは、無数に証拠がある認識論の基礎です。カントの認識論は、たぶん西欧の哲学史だけではなくて、いろいろな学問の領域で変奏曲のように繰り返し表れています。

カントによれば、
認識は感性+悟性。直観+思考とも言えるのかな。


ぱっと思い出せる
概念によって認識は限定付けられる有名な例としては、虹の色の見え方がある。
この色の見え方はたしか国の言語によって変わってくるらしい。
日本語は調べてないから分からないけれど、おそらく色を表す言葉の種類がとても多いです。そういったことでも人が見ている世界や認識が違ってくる。


記憶でだーって書いているので不正確なところありそうだけど…。
よく考えたら、教育論やら教育学に関しては後から分かってきたなんてことがたくさんあったなあ。概念ばかり先行してイメージができなかった。