名付けること

神でも南無妙法蓮華経でも薩達磨分陀利伽蘇多攬(さだるまふんだりきゃそたらん)でも、名前はなんでもいいし、名付けられたのは偶然だという考え方がある。ぼくの知人はそう考えていました。


でも偶然だけではないと思う。


例えば「さしすせそ」と「なにぬねの」では発音した感じが違う。
ぼくは名前の響に意味があると思う。つまり名付けることは、偶然だけでは決まらなくて、音の響きなどから名付けられることがあると思う。

絶対的な名前はないのかもしれない。つまりより良い名前は考えられるけれど、これが唯一という名前はないのかもしれない。でもその存在を名付ける時に、その存在によりふさわしい名前はあるかもしれない。


「犬」「ドッグ」やら、でもやはり偶然か。


でも僕は「南無妙法蓮華経」が好き。
それは僕が母親のお腹の中にいる時から聞いているからだと思う、記憶にはないけど。



そもそも名付けることは、その社会の言語、つまり日本語やら英語やら中国語やらに依存している。
だから、「犬」と名付けようが、「ドッグ」と名付けようが、そこに必然性は全くないようにも考える。
必然性があるということは「犬」と呼ばれる対象の名前は必ず「犬」だということ。
それは偶然なのだ。にもかかわらず、ぼくはその偶然の中に、必然を見出す。


必然か偶然か、この問い、ナンセンスかもしれない。
カントや牧口の哲学で言われるみたいに、僕らは二世界を生きているとのだと思う。これは疑うのが難しいくらい確実なこと。



能動態と受動態の問題と同じね。
偶然性と必然性というのは、全体ではない。