gw 読書

働かなきゃ。

カラマーゾフの続編を空想する、楽しかった。
ラカン関連本に比べると、とても楽に読めた。
やっと届いて、一気に読みました。楽しかったです。ドストエフスキーの主な作品をほとんど翻訳した著者が、未完の「カラマーゾフの兄弟」の続きを考えていて、それを知れてよかったです。この作品が連載されていた時も、アリョーシャは人気のある登場人物だったみたいです。10代の時には、すごい異質な他者に出会ったと思いましたし、憧れるというか、特別な思いが、アリョーシャという登場人物にあって、今もその思いとか、感動を引きずっています。


ラカン派精神分析入門―理論と技法

ラカン派精神分析入門―理論と技法

フィンクという人のラカンの本は、人生で読んだラカン関連本で一番読みやすい。それにラカン派の精神分析派の態度に見習いたいものがある。心理学の世界で、患者が良くなりたいという思いがなければ治療できない。そうならば、治らないのは、意欲のない患者の責任だという精神医学の医者がいる。それとは、逆のスタンスで臨むのがラカン派の医者です。精神的な疾患を患っている人たちは、そういう良くなりたとか、そのようには思っていない。その精神的な症状から得られる快楽があって、そこから抜け出したいとは、そもそも考えていない。そういう前提で、患者に関わって行くのが精神科医だというわけです(記憶で書いているので、少し不正確かも)。精神科医は、患者が精神分析するのを助ける役割です。自分の無意識を分析する副産物として治療がある。


これは教育の分野でも参考になる話だと思う。
子どもたちは学びたい!とは思っていないかもしれない。
子どもたちに意欲がなければ、教師はどうしようもないと考えるかもしれない。
学習の責任は子どもたちにある。私(教師)には責任はない。私(教師)は、やるべきことをやっていると。子どもたちがやらないからだ、意欲しないからだ、できないのは。このように考え、諦めるかもしれない。


ある子どもたちは、勉強は嫌いだという。しかしそう言明していても、本当は勉強がしたいのかもしれない。



患者や子どもたちが言ったを、ワンクッション入れないで、そのまま受けとってしまうのは危険。

患者がもう治療に行かないという。言葉の通りなのかもしれないが、本当は行きたいのかもしれない、治療を続けたいのかもしれない。その時に精神科医がとるべき態度は、精神科医の欲望を明確に伝えることだ。一週間に一度、来て欲しいとか、また会って話を聞きたいとか、患者に欲していること、期待していることを伝え続けることだ。患者のもう行かないというのを、そのまま額面通りに受け止め、諦めたならば、それをメッセージとして患者は受け止める。治療は進まないばかり、症状は悪化するかもしれない。治療は患者の欲望ではなく、精神科医の欲望によって、進むのだ。


子どもたちについても、教育についても同じことが言えるかもしれない。
何かで家庭訪問した際に「もう来ないでくれ!」、
こんなことを保護者に言われるかもしれない。でもそれをそのまま受け取るのではなくて、ワンクッション置いて、解釈する必要がある。

ある子どもたちは、「○○が嫌い!」というかもしれない。でも本当は好きなのかもしれない。○○は、欠如を感じる存在で、本当は強く求めているのかもしれない。




一歩、自分や世界について、深く考えられるようになること。
一歩、自分自身について深く考えられるようになることを促すような、ラカン派の精神分析みたいな、教育を考えられるかもしれない。子どもたちが、少しでも深く、自分や学習や世界について理解できるようになるために。



ラカン派は患者とは言わない。分析主体と呼ぶ。